千葉節子 Setsuko Chiba 千葉節子 Setsuko Chiba (Setsuko)
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2018-09-19 07:03:44 UTC

朝、思いがけなく降りだした雪は、夜になった今も降り続いている。 雪の日は、いつもより少しだけ、ほっとする。 大地に染み込んだ放射能が、大気に舞うのを防ぐから。  そのため、今日の公式の数値は、0.30マイクロミリシーベルトを切っていた。


雪が石棺の役割を果たしてくれているのだろうか。  Fukushimaに降る雪は、空からの贈り物だ。 あるいは、天使たちの子守唄なのかもしれない。  三好達治の詩を思い出す。 あるいは、ボードレールの「雲」、を。


すべての生きとし生けるものからその生存の権利を一瞬にして奪う「核」を、 わたしたち人類が持たなくなる日は必ず来るだろう。  その日を実現させるために、ふくしまは、Fukushimaになったのだ。


オレンジやレモンの色をした街灯が、ふうっ、と夜空に灯るのを、 部屋の窓からみつめながら、宇宙の手紙である冷たい純白の雪のひとひらひとひらが、このかなしみの大地を甦らせようと、懸命に働くひとびとのこころに、やさしく届いてくれることを願う。  世界を変えゆくために戦い続けるすべてのひとびとの人生に、誰よりも素晴らしい歓びの春が 訪れることを。  



                                                       さやさやと

                                                       さやさやと

                                                       おともなく

                                                       つもるゆきの

                                                       ぬくもりの

                                                       はるのはげしさ

                                                       胸が秘め



Setsuko, 2012,3,4,Fri.


2018-09-19 07:03:13 UTC
 窓から射し込むきらきらした3月の光を眺めていると、放射能という、いのちの尊厳を脅かす地球の見えない存在が、何気ない暮らしのなかに既に溶け込んでしまっているということを、一瞬忘れさせられる。3.11以降、Fukushimaに起こったすべてのことを。そして、今尚、起こり続けているすべてのことを。
 哀しみと怒りで張り裂けそうな思いを、生き生かされていることへの深い感謝の心と行動に換えながら、今日も、又、多くのひとびとは懸命に生きている。
 感謝に生き抜くひとは、本当の幸せを知るひとだ。深い感謝は、人生を清め、そして耕す。どんなことが起ころうと、ありがとうの心を忘れないひとは、世間やひとびとから忘れ去られることは決してない。たとえ辛く、寂しい思いをすることがあっても、必ず大きく開ける時が訪れる。それを信じて、ゆっくりでも前へふみだし、自分らしく進むなかに、幸せの種子は芽生えるのだ。幸せの花は咲き誇るのだ。
 「大丈夫。あなたならきっとできる。必ずできる」。この言葉を、日本に限らず、大変な思いをしている世界中のすべてのひとびとに、届けたい。 自分を信じてくれている誰かが世界のどこかにいるというただそれだけのことで、ひとは、希望へ、勇気へ向かうことができるのだ。
 ”Fukushima”が始まり、私達は、放射能が国境を越えて広がりゆくことを知った。一方、励ましと絆も、又、国境を遥かに越えゆくことを、私達は知ることができた。
 消さないことだと思う。これから大切なことは、ひとびとの胸のなかに点る小さくとも大きな炎、いのちのとうときとうとさと子供達の未来を守るために生まれた炎を。決して消さないことだと思う。  そのためにも、感謝の心で絆を深め、広げゆきながら、目の前のひとりひとりの素晴らしさを、どんなときでも信じてゆきたい。どんなときでも声にして、目の前のひとりひとりの心に届けてゆきたい。「大丈夫。あなたならきっとできる。必ずできる」、と。

2018-09-19 07:02:59 UTC
 いつのまにか置かれていた線量計をみつけた場所は、野球に興じる子供達や、カルチャー教室が開かれる、憩いの公園の芝生の上であった。
  那須の山々が美しい純白の雪のベールを被り、寒くとも澄み切った青空が清々しいとある日の午後、キャラメル色をしたポストにシルバーの看板を掲げたかのような公共の線量形に近づいてみると、オレンジのライトが点滅しながら示す数値は、0.40台から0.50台だった。ここは、子供達が遊ぶパブリックな場所であるためか、白河市がいち早く除染をしたと聞いていただけに、この数値はショックだった。
 「福島と郡山は市民が積極的ですが、ここは大人しいですね」という声を、至る所で幾度か耳にしたことがあった。原発から78キロ圏内という事故後初期の感覚が、そのような空気を作りだしているのだろうか。  確かに、白河市の街中でデモがあるという情報は、今のところ流れてはこない。ガイガーカウンターを何度か借りに市役所を訪れたが、市内のホットスポットの地図を渡されただけで(2011年秋)、それ以上の知りたい情報は得られなかった。けれども、これはどこの行政でも同じなのかもしれない。やはり、住民ひとりひとりの意識と行動が大切なのだ。先日、アメリカはNYで反原発のデモがあったが、スローガンは、”Power of people change power of nukes"~市民の力が核の脅威を変える~であった。
  ひとりの力は弱いように見えても、ひとりひとりが強い心でつながれば、時代を良い方へと変えてゆける。諦めてはいけない。声を掛け合い、知恵を出し合い、朗らかに、粘り強く働きかけ続けることで、ありえないと思われていた物事を実現させた実例は、世界中にたくさんある。Fukushimaは、原発の恐ろしさを伝えると同時に、ひとりひとりの存在のとうとさ、いのちのかけがいのなさ、そして、何気ない日常を何気なくおくることのとうとさ、ありがたさ、幸せを、わたしたちに訓えているのだと思う。
  今をときめくIT王国、インドを独立に導いた建国の父、かのマハトマ・ガンジーの言葉を思い出す。「人間の魂は原爆よりも強い」。

2018-09-19 07:02:44 UTC
  白河の自然は美しい。空は、こんな空は見たことがないというくらいの大空であり、光と雲の微妙な豊かな表情を追うだけで、瞬く間に時間が過ぎてしまう。白河の空を見ていると、ひとと自然は、大宇宙の名のもとに、ひとつに溶けあっているのだということが、とても自然なことのように思える。どんな時でも私たちは大宇宙にみつめられ、その大いなるふところにいだかれながら生き生かされているのだ。どんな時でも、私たちは、太陽と月と星という生命の天体の慈しみのステージである目の前の大空とともに、生き生かされているのだ。その測り知れない生命の至福の、感謝の歓びは、私たちが胸を開き、こころを開いた時に、表し尽くせない深い感動となって胸の奥に湧きあがる。人間は、どんな時でも一人ではないといういのちの自然が、こころのなかに甦るのだ。
 明日の風はどこから吹くのだろう・・・・。夕食後につけるテレビの天気予報を見ながらいつも気をつけるのは、雨と、そして風向きだ。原発事故の前は、吹く風のなかに潮の香りをみつけると、福島のどこまでも伸びるダイナミックなエレガントな海岸線とその優しい町並みを訪れた時の記憶が甦り、懐かしくもやすらかな気持ちで胸がいっぱいになったものだが、3・11以降、すべてが変わってしまった。福島原発の事故は、私たち、普通の庶民の生活を、人生を変えただけではなく、風を感じる自由すらをも取り上げたのだ。ささやかな、わずかな、あたりまえの、けれども、大切な、かけがいのない歓びを、大人だけでなく、幼い子供たちからをも取り上げたのだ。  事実に基づいているものならばともかく、根拠のない風評被害で一番傷ついているのは、子供たちなのだと思う。私は他県から移り住んだ移民の身ではあるが、こころない出来事を耳にする度に胸が張り裂けそうな思いになる。誰しも不安なのはわかる。けれども、その不安とおそれを、最もか弱い相手にぶつけてはならない。問題の解決は、傷ついている相手の傷口に粗塩をすり込むことのなかあるのではなく、このような出来事を二度と起こさない地球を、世界を、人類を築くためのひとりひとりの具体的な行動の継続のなかにあるのだ。
 ちらちらと風花の純白が舞うなか、町内会から配られた除染のための袋に、家周りで放射能が最も高いと思われる場所の土を入れ、自宅の門の前に置いた。一つが重さ30キロほどであろうかと思われるそれらは二つとも、休日を返上して受け取りに来てくださるボランティアの方々の手で、しかるべき場所に運ばれた。日本の全国土に比べたら、芥子粒ほどかもしれないが、大切な一歩である。因みに土を入れた袋は、正午過ぎの時間帯で0.40台マイクロシーベルトで、日頃の空間線量とあまり変わらなかった。よくはわからないが、空気も大地もひとつなのだと思った。すべてはつながっているのであり、いのちは、どれほど別々のように思えても、互いにつながり、見えない手と手をつなぎあいながら存在するものなのだ、と、あらためて思った。
 3月18日、長い戦禍で苦しむパレスチナの子供たち1000人が、被災した日本を励ます目的で、まだ春には遠いガザの大空に希望の凧を揚げている様子がテレビの画面に流れた。「日本は、長い経済制裁で苦しむ僕たちを助けてくれました。今日は、僕たちが日本を励ます日です」。この清らかな、伸びやかな子供たちのこころがある限り、地球の未来は大丈夫なのだと思った。この大宇宙の大空と溶けあう子供たちのこころこそが、地球の、世界の、人類の宝なのだと思った。誰にも壊すことができない、最も美しい、不滅の星の宝なのだと思った。

2018-09-19 07:02:27 UTC
 東北の春は華麗である。冬が長いためなのか、気温が和らいだかと思うと、待ってましたとばかりに、春を告げる花々が、一斉に咲き誇るのだ。白河市で暮らすようになって初めて迎えたとある年の春。梅と桃と桜が一時に咲いているのを見て、その激しい輝くばかりの風景に、しばし時を忘れたことがあった。そして、それらの優美な花木の足下では、青い蛍光色のムスカリや、何種類ものパンジーやビオラやチューリップやヒアシンスが、朗らかに、のびやかに咲き賑わうのだ。雪の帽子を被った四方の山々を背景に、歌うように、踊るように、花びらを、ひらひらきらきらさせるのだ。  東北の春は、ひとつの桃源郷である。これほどまでに豪華な香りと色彩の、繊細と雄大の両方を味わえる場所は、地球広しといえどもそうはない。
   白河市からしばらく車を走らせた所に日本三大桜の一つに数えられている「三春の滝桜」がある。去年は、大震災のため観光は見送られたが、樹齢1000年といわれる巨木は、幸運なことに被害も無く無事だった。今年の見頃は、予想では4月の後半のようだが、大震災に耐え抜いた優美な姿は、必ずや訪れる人々の大きな励ましになるに違いない。  「三つの春」と書いて三春と読む名前には、いのちと人生の真理が託されているように思う。冬が長く、厳しいからこそ、訪れる春は鮮やかなのだ。その冬を受け入れ、乗り越えるからこそ、人生の歓びは深いのだ。
 「今だにあの時の様子が目に浮かんで苦しいんです」。3.11から一年目を迎えた今年の3月。地震で自宅が全壊した知人の男性が、目に涙を滲ませながら辛い胸の内を語った。こつこつと積み上げてきたものの全てを一瞬にして失う衝撃。そして、その深い喪失感から生まれるやり場の無い思い。時は過ぎても、哀しみ、憤り、おそれ、不安など、こころの症状を抱えている人たちは、白河を含め被災地にはたくさんいる。又、サバイバーズ・ギルトといって、生き残ったことに対して重い罪悪感ともいえる自責の念にとらわれて苦しんでいる人たちも、大変に多いのだ。「何故自分だけ助かったのだろう」、「何故あの時あの人を助けられなかったのだろう」。本来自身が生き延びたことを喜ぶべきところを、反対に苦しみと哀しみを背負うことになることほど、耐え難いものはない。
 こころのケアには、「聴く」ことが大切といわれる。相手の話をよく聴き、相手を全面的に受け入れるのだ。「聴く力」は、話しているひとに安堵感を与える。ひとは、聴いてくれ、頷いてくれるひとを通して、自分という存在がこの広い宇宙で孤立した、たったひとりの虚しい存在ではないという安心感を得る。相手の「聴く」こころに、自分に対する健全な肯定感を、時間はかかっても、取り戻してゆけるのだ。  「聴く」、とは、最も尊い包容力である。当然、強い忍耐力とバランスが求められる。けれども、それによりひとりのいのちが救われるのなら、そのふるまいは、お金にはかえられない。家にも、まふまふという名前の、ヒマラヤンでシ-ルポイントの、来る8月30日で13歳になる猫がいるので思うのだが、近年のペットブームも、こうした背景があるのではないかと思う。ペットと仲良く暮らすにはそれなりのお金が要る。けれども、「この子なら私のすべてを聴いてくれる」、「この子なら俺のすべてを受けとめてくれる」、という何物にもかえがたいペットたちの「聴く力」に、私を含めて、多くのひとびとは、癒され、励まされ、頭を深く垂れるのではないかと思う。
 もちろん、こころのケアが求められるのは、被災地に限ったことではない。東日本大震災と福島第一原発の事故、そして、その後の政府の対応のまずさにより、日本中が大きな不安を抱えている。だからこそ、つながり、支えあう方向へ、不安のエネルギーをシフトし抜くべきと思う。人間には、闇雲に自らの不安に囚われ、ふくらませてゆく面がある一方で、そんなネガティブなエネルギーを開発と発展の力に転換する本能ともいえるいのちの力がある。それは、過酷な冬の寒さを、春を呼ぶエネルギーに換えて咲く桜の力強くも清らかな花のこころに通じている。    一輪で咲く桜の花はない。ひとつひとつの可憐な花たちが寄り添うようにして空に向かって広がるから、桜は美しいのだ。ひとつひとつの花たちが互いに互いを励ましあいながらどんな空にも咲き誇るから、桜をひとは愛するのだ。
 「人は誰でも、答えのない哀しみを受け入れることは苦しくて辛いことです。しかし、日本が一つになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じます。だからこそ日本中に届けます。感動、勇気、そして笑顔を。見せましょう、日本の底力、絆を」。  3月21日。春の選抜高校野球の開幕を告げる甲子園球場で、宮城県は石巻工のキャプテン、阿部翔人選手が、被災地のひとびとのこころに寄り添う力強くも温かな選手宣誓をした。  石巻工は、その後惜しくも惜敗したが、この少年たちのプレーに、どれだけ多くの人たちが、生き抜く勇気を与えられただろう。
   3.11を契機に世界が注目する日本の絆の力を創りあげてきたのは、一部の権力層ではなく、私たち庶民である。だからこそ、春を象徴する桜の花ように、大震災直後の壮絶極まる日本の、人と人とが手をつなぎ、心と心を寄せあうふるまいに、世界の人々は胸を打たれたのだと思う。 
 最も苦労した人たちが報われる社会、最も苦しんだ人たちが幸せになれる国、と世界が讃える国造りへ、これからの日本が歩みだすことで、多くの人たちの心のなかにある「答えのない哀しみ」に、やわらかな春の光が訪れるのだと思う。その光を運ぶのは、今も、そしてこれからも、私たちひとりひとりの、ふるまいによるのだと思う。長い、厳しい冬を、最も光輝く春の深い歓びにかえてゆく私たちひとりひとりのいのちをとうとぶふるまい。傷ついているひとりの人を決して忘れない、桜のこころのふるまいによるのだと思う。

2018-09-19 07:02:13 UTC


久し振りに東京へ向かう日は、猛烈な風雨が吹きすさぶ春の嵐の午後だった。
福島第一原発の事故以来、雨の日の外出はできるだけ控えるようにしているのだが、どうしても済ませたい用事があるため、予定どうり新幹線の駅へ向かった。
列車が来るまで三十分ほど時間があったので、コートのポケットに入れたエアカウンターを取り出して新白河の駅の構内の放射線量を測ることにした。赤いチューリップの花たちが、ゆきかうひとびとに優しい微笑みを投げかける窓辺に置かれた木製の椅子に荷物を置き、手前のテーブルの上にエアカウンターを置いたところ、数値は0.18マイクロミリシーベルトで、自宅のある住宅街よりもずいぶん低かった。次に、雨足の強いホームの上で測ったところ、駅の構内とあまり変わらなかった。



以前から、新幹線の中で放射能を測るとどうなるのだろうと思っていたので、新白河から東京まで各駅を停車するごとに測ってみたところ、那須塩原が0.18、宇都宮と大宮が0.08、小山が0.15、上野と東京が0.05マイクロミリシーベルトだった。
東京駅で待ち合わせた友人たちと、四谷、赤坂と、移動したのだが、丸の内線の地下鉄の中は0.05であり、赤坂の榎坂(風が強かった)は、0.20マイクロミリシーベルトであった。それから数日後のよく晴れた午後、友人が経営するギャラリーへ向かうので、横浜線に乗ることになったのだが、桜の花咲く大倉山の駅周辺は0.08。深夜の菊名駅のホームは0.16マイクロミリシーベルトであった。
原発事故前のことはわからないが、東京には、郊外を含めて、白河市をはじめとする福島県の一部の地域とあまり変わらない放射線量の地域があるというのが、率直な印象であった。けれども、空にも、そして空気にも、本来国境、そして、県境はないのだから、これは、ごくごく自然なことのように思うのだ。



どんなに離れた大陸と大陸でも深い海の底では互いにいつながりあうのと同じように、私たちひとりひとりも又、空や空気とともにつながりあっている。「ほんとうに大切なものは見えないもののなかにあるのだよ」、と不朽の童話、「星の王子様」の中で言ったサン・テクジュペリのように、見えないものをみつめたとき、いのちと人生に関わる本質的な答えに近づけるのだと思う。



 「福島に住んでいるんですか?それは大変ですね」。原発事故が起きてから初対面のひとたちからこういう風にいわれることが多くなった。震災直後は、涙まで浮かべて気遣って下さる方々にお会いしたこともある。その度に、ひとの優しさとおもいやりの温かさにふれる思いがして、いきなり訪れた想定外の現実を前向きに取り組むための新たなモチベーションにさせていただき、今も感謝のこころに絶えない。。けれども、その一方で、気になることがあった。それは、放射能が福島県だけの問題ではないということに、どれだけ多くのひとたちが気がついているのだろうということである。たまに、「このあたりは数値が低いから大丈夫ですよね」というひとにお会いすることがあるのだが、その答えは誰にもわからないものではないだろうか。わかっているのは、空も空気も、本来国境も県境も持たないということのように思う。そして、その国境も県境も持たないものとともに、わたしたちはともに生きているのである。


 
東京と白河を行ったり来たりしていると、放射能に対する意識の温度差をかなり感じることが多いので、外国を行き来しているかのような気がする。気にはしているけれども、離れた場所での出来事のように思えているひとたちが多いように思うのだ。
自分の身に降りかからないうちは実感が持ちにくいという世の常のようなところなのかもしれないが、それでは、大切なものは守れない時代がとうに始まっているのだと思う。Fukushimaは、そいうことも、又、私たちに伝えているのだ。



目に見えるものだけを追うのではなく、空気の瞳と大空のまなざしで自身と周囲を見渡すとき、既に始まった新たな時代との向き合い方が見えてくると思う。そこにあるのは、自身と他者というボーダーへの執着ではなく、いのちと人生へのやさしさの深さなのだと思う。同じ空気を呼吸する地球市民としての自覚。自身と他者の区別なく、本当に大切なもののために自らを開く、大いなる自己なのだと思う。

2018-09-19 07:01:59 UTC
とても素敵な星の話を聞いた。 ほんの二日前の朝、NHKのニュースをいつものように何気なく観ていた時のことだ。日本とアメリカの天文学者たちが、東日本大震災で被災した人たちを励まそうと、新たに発見された10個の小惑星のそれぞれに、東北はもとより、昨年3月、震度6強に襲われた長野県を含めた被災地の名前をつけ、国際天文学連合、小惑星センターにこのほど正式に登録したというのである。以前にも、埼玉県は狭山市の職員であり、アマチュア天文家でもある佐藤直人さんが、自身が発見した小惑星に「Tohoku」とネーミングし、鎮魂と復興への祈りを表わされたという感動的な星の話があった。その鎮魂と復興の惑星、「Tohoku」は、今年の3.11に、地球、火星、太陽と一直線に並んで地球に接近し、肉眼では見ることがかなわないものの、南の夜空の上空で明るく輝いたのだというのである。遥かなる悠久の大宇宙と人々の思いが溶けあうと同時に、いのちへの限りない優しさを物語る、壮大なスケールに満ちた話だ。
今だ癒えない哀しみのなかにいる方々が多いなか、夜空に瞬く綺羅星のなかにはそれらの方々を思う深い祈りが込められた星があり、静かなる透明な光のまなざしで、地上の私たちを見守っている・・・・そう思うだけで、どこか優しい気持ちになれるのではないだろうか。すぐには思うようにはなりにくい現実の渦中におかれているだけに、温かい、善意の真心に触れることは、希望のためには必要な大切な一歩と思う。その大切な一歩になれるような、相手の心に寄り添う言葉と振る舞いを絶やさないようにし続けることが、どのような時代におかれても、平和と幸せのために大切なことと思う。世界には自分をみつめてくれている誰かがいる、と思えることができた時、人は絶望から立ち上がることができる。その大切な励ましのひとつ、と、この度の小惑星の話は、私はもとより世界の多くの人たちの心に刻まれたことと思う。
いのちは星でできているという話を、以前読んだことがあった。それは、人間の体は宇宙に輝く星の成分を全て携えているというものだ。それが本当であるのなら、私たち人類のひとりひとりは、誰かの歌にもあるとおり、「地上の星」ということになる。古から、人間が星を見上げながら暮らしてきたのは、実は、このような理由もあったのかもしれない。たとえ、人の形をしていなくとも、見上げた空のなかに生命を見出し、その天上に無限に広がる瞬く光の存在に、希望と、そして、いのちのとこしえを感じとってきたのかもしれない。
星をみつめるということは、いのちの輝きをみつめることなのだ。亡くなられたひとを星にたとえる一方で、どんな状況におかれていようと、生きている誰もが皆それぞれに地上における星であるという意識が、今とこれから、益々大切にされるのではないかと思う。
厳しい現実が長く続くと、「自分なんて」、と、投げやりな気持ちになることがあるかもしれない。けれども、頭上に輝く夜空の星と同じように、現実が暗いからこそ自らの殻を破る思いでもう一歩前へ踏み出す勇気をいのちの奥から湧きあがらせる時、希望の光は生まれるのだ。そして、その希望の光の輝きを、一人でも多くの人たちと分かちあおうと、ふるまい、つながり続けゆくなかに、幸せは、新たに生まれゆくのだと思う。試練と困難の人生に出会う以前よりもはるかに幸せな人生が、必ず始まるのだと思う。
ゴールデンウィークだというのに竜巻注意報まで出るほどの嵐がようやく静まった5月5日から6日にかけての深夜、いつもよりも14パーセントふっくらしたスーパームーンが、白河の夜空においても見ることができた。薄い絹のベールを一枚一枚脱ぐかのように、ゆっくりと雲の切れ間から顔を出す月の表情は、宇宙の深淵を覗き込むように壮麗でいて、尚且つ、優しかった。
この日は、奇しくも日本の原発の全てが止まった記念すべき日であった。そして、その翌日の6日、海の向こうのフランスでは、現職の大統領が選挙で破れ、代わりに、原発削減をマニフェストの一つに掲げた候補者が、原発大国フランスの新しい大統領に選ばれた。
スーパームーンの妖しいまでも美しい輝きに溢れた空の大きさをみつめていると、月も地球の幸せを望んでいるように思えた。私たちのひとりひとりが「地上の星」であるかぎり、全ての星の母である大宇宙が、私たちが共に生きるこの青い星の、平和とそして幸せを望まないわけはないのである。
たとえ誰がみつめているように思えなくとも、宇宙は深い愛をもって私たちひとりひとりをみつめている。星を見上げた時につつまれる優しい安堵感は、きっとそれを物語っているのだと思う。私たちは、私たちをこの世に誕生させた宇宙の愛への感謝の心を深めながら、「地上の星」の使命を果たすべきと思う。ひとりでも多くのひとに希望の光を送りながら、自らも共に光と輝いてゆく「地上の銀河」の幸せを、どこまでも地球の上に広げゆくべきと思う。

2018-09-19 07:01:44 UTC
一月前のことである。「あれ、どうしてこんなところにこんな画像があるんだろう」と思い、クリックしたところ、イギリスのニュースサイト、WNに、”Poetry Helps The Healing After Fukushima Disaster ~詩がFukushimaの悲劇を癒している~”(http://wnnmedia.com/)、のタイトルの記事が現れ、You Tube に投稿された私の詩のパフォーマンスのビデオの何本かが、国内外の他の方々のビデオと一緒に、記事の中で紹介されていた。ささやかながら、被災地の方々の為に行ったチャリティーイベントのライブをはじめ、去年の3.11以降行ったもののビデオである。一詩人、一アーティスト、いや、それ以前に一人の人として、希望のこころと言葉を届けたいという思いは、常に変わることのない自身のアートと人生のテーマであるので、このようなコンセプトでご紹介いただくことは、今後の活動に対して励ましをいただく思いである。多くの素敵な方々に一層学びながら、これからも、何があろうと前へ進もう、という日頃の思いを、更なる感謝の心とともに新たにさせていただいた。
3.11以降、詩という言葉のアートが、その役割を十二分に果たすよりもずっと早くに、前向きな、明るく、そして温かな、思いやりと励ましを目的とする言葉への需要が、日本において確実に高まったように思う。それを日常のリアリティのひとつとして感じるのは、国内におけるラジオの、新たなる再評価とも言える静かなる浸透である。
大震災直後、ラジオから流れてくる多くの善意と勇気の声に、癒され、励まされた、と感じたのは、私だけではないだろう。何が起こったのか、また、何が起こるのかわからない、という不安な、緊迫した状況下において、「こんなにも人は優しいのか」、「こんなにも人は温かいのか」、と思えるたくさんのポジティブな温もりを感じさせてくれる人々の声と言葉とバイブレーションを、あの時、ラジオは届けてくれた。
人は、パンのみにて生きるにはあらず。もちろん食べられなくては人は生きてはゆけないが、豊かなる励ましの声は、言葉は、表現は、魂と人生への愛と希望につながるのだ。
日本では珍しい竜巻が、北関東平野の住宅街を襲ったメイストームの5月。二人のアーティストの友達が、3.11後に制作したそれぞれの作品を、東京の各々のギャラリーで発表することとなった。一人は、福島原発の事故を通して、このような社会を作った人類の責任を問うかのような、書とビデオを取り入れたユニークなパフォーマンスで観客を魅了し、もう一人は、東北の被災地で犠牲になった子供たちへの深い哀悼を込めた、ジャクソン・ポロック張りの墨を使った抽象画を展示したのであった。
歴史上、苦難を背負ったバックグラウンドからは、それらの闇の深さを遥かに上回る優れた芸術と文化が、漆黒の空に輝く南十字星のように際立つきらめきを放つことが多々あるが、大震災後、アートがどう復興に尽くし、どのように自らの殻を破ってゆくのか・・・・という、今最も必要とされ、最もコンテンポラリーな命題であるこれらのテーマを心の奥底に携えながら、きっと多くの日本人のアーティストたちは、自らの産みの苦しみと闘っていると思う。その闘いの末にきらめく光は、日本のみならず、世界を照らす希望の光であって欲しいと思う。
アートのためのアートという、すでに形骸化された小宇宙のどんよりとした冷たい脆い光ではなく、自らの、そして、すべてのいのちの尊さを照らし、輝かせる、希望の不屈の魂の大宇宙の光であって欲しいと思う。

2018-09-19 07:01:28 UTC

プッシー・ライアットは、ローザ・パークスになり得るだろうか。
プッシー・ライアットとは、今年の2月21日に現ロシア大統領、ウラジミール・プーチン氏が再選されたことに抗議するため、モスクワ市内のロシア正教会救世主ハリストス大聖堂において、ゲリラライブを行い逮捕され、先日、2年の服役を言い渡されたロシアのフェミニスト・パンクバンドのことである。

判決が下りる一日前、先頃、ロンドンオリンピックで往年のビートルズナンバー、「ヘイ・ジュード」を熱唱して話題になったばかりの、あのポール・マッカートニーが、「困難な時にあるあなたたちを応援するために手紙を送ります」(8月17日AFB)と、彼女達に励ましの手紙を送るなど、プッシー・ライアットを取り巻く話題は、日を増すごとに膨らんでいる。当然、国際人権擁護団体、アムネスティー・インターナショナルもいち早く動き、やはり同じ判決の一日前に、プッシー・ライアットの釈放を求める一万人の署名を、イギリスの在ロシア大使館に届けている。

このような海外の動きが無視できなくなったのか、最近、日本のテレビもこのプッシー・ライアットのことを、少しづつ取り上げ始めてきたように思う。欧米中心とは言え、世界では繰り返し報道されてきたこの問題を、ようやく、の感じがしなくもないのだが、お茶の間でも見らるようになった。原発事故以降、積極的に発言をし、行動していた俳優の山本太郎さんの例を見ればわかる通り、日本の芸能関係者やテレビは以前から人権問題においての発言へのサポートが消極的である。原発事故は、明らかに多くの国民の基本的な人権を侵している人権問題であるのに、その当たり前の事実を指摘している心ある一部の著名人達に対して、事故直後からのマスメディアの何と冷やかなことであったろうか。そこには、当然権力構造の問題もあるのだが、それ以外に、アーティストの意味が、日本では、ある所からは先には行かない何らかの意識の壁があるように思う。イギリスはもちろんヨーロッパには、古くから「ノブレス・オブリージュ」、高貴なる者の使命、と呼ばれる精神文化があるため、チャリティーやボランティアが市民の間でも盛んである。当然アーテスト達は、その影響力の大きさを生かした人権活動に積極的に取り組むことが多いし、又それを市民から期待されていると思う。以前、このブログにも書かせていただいたが、その当時パリの武道館と言われたゼニットで行われたホームレスのチャリティーの為のイベントのステージに、私も立たせていただいたことがある。その時、アフリカのテレビ局のインタビューを受け、僭越ながら自身のコメントを電波に乗せていただいた。そこには、少なくとも文化芸術に携わる人間なら、社会的弱者を救済し、奉仕するための何らかのメッセージは持っているはず、という意識があたりまえのように存在していた。そして又、それが、アーテスト達の魅力を測る重要な条件にも数えられているようであった。

欧米の多くの民主主義国は、様々な課題を抱えるも、市民による革命の歴史の上に成り立つため、ひとりひとりの声を集めることの大切さを知っている。声が人を動かし、国を動かすその一方で、人を動かし、国を動かす声の力を、いつも市民は求めているように思う。
その代表的な例が、アメリカ公民権運動の火付け役になった、一人の黒人女性、ローザ・パークスの登場である。1950年代当時のアメリカでは、人種差別政策が盛んで、黒人は、バスに乗れても白人と同じ席には座れなかった。そんな激しい差別の時代に、ローザ・パークスは、彼女を黒人専用の席へ移動させようとした白人へ向かって、「No.」の一言を決然と声に出し、その直後、逮捕された。だが、この彼女の人権に対する勇気ある行動が、全米を揺るがすバス・ボイコット運動へと繋がり、その後のアメリカにおける人種差別撤廃法案の可決へと繋がるのである。まさに、声が人々を動かし、国を動かした例である。
後にローザ・パークスは語っている。
「私の母は、幼い頃から私に誇りを持って生きるように、と、いつも私に語っていました」。
歴史を作る人の母親は、その子に勝るとも劣らない勇気と信念の女性なのである。

さて、話は、今、世界で話題のフェミニスト・パンク・バンド、プッシー・ライアットに戻るが、彼女達に重い実刑判決を下したロシアは、最近の欧米のニュースによると、反政府的な思想をもたらす惧れがあるから、という理由で、ロシア国内におけるボランティア活動をも制限し始めたという。どこまでもエスカレートしそうなこの流れは、逆に、とうに目覚めた多くのロシア国民の政府への抗議の声を一層募らせるのではないだろうか。これも少し前のブログに似たような内容の事を書かせていただいたので、お読みいただいた方々にはご記憶のことと思うのだが、イギリス王室のように、自らのファミリーを国民のジョークネタとして提供することすらをも大切な国策の一つ、と、オープンマインドの中に威厳を持たせるエリザベス女王の方が、プーチン大統領より何枚も人格的にも上手のように思う。が、やはり、シリアや北朝鮮のように、なかなかそうはならない国と本人の事情があるのだろう。
プッシー・ライアットは、果たしてロシアのローザ・パークスになり得るのだろうか。それは、おそらく、彼女たちの声に突き動かされた人々の声の高まりの度合いとその持続によるのであろうと思う。
彼女達に一日も早く自由が訪れるのを祈りながら、彼女達とそしてロシアのこれからの推移を、みつめてゆきたいと思う。






2018-09-19 07:01:15 UTC


9・11という日は、アメリカと日本の二つの国にとって特別な意味を持っている。
アメリカにとっては、同時多発テロが起こった日であり、そして、日本にとっては、東日本大震災が起きた日より数えて半年ごとの節目と捉える日なのである。

今朝、目覚めた後に開いたフェイスブックには、海外の友人を介して、破壊される前のツインタワーや、現在、NYの空に高く伸びる青い光のインスタレーションをモティーフにした追悼のための様々な写真や言葉がアップロードされていた。その一つ一つの写真と寄せられた数々のコメントを丁寧に見ながら、あのテロ行為がたくさんの人々の命を奪っただけではなく、そのご遺族や行方不明者の家族と関係者の方々を、今尚苦しめ続けている事実をあらためて知らされた。

あたりまえの日常が一瞬にして崩れ去る衝撃。帰ってくるはずの愛する人が二度と戻らない悲しみ。国や言葉が違えども、その癒え難い心の傷と測り知れない喪失感から、人である限り、誰しも素通りすることはできないであろう。この場を借りて、亡くなられた全ての方々のご冥福はもとより、ご遺族とご関係者の方々のご健康と、そして、それらの方々に一日も早くやすらかな、穏やかな時間が訪れますことを、心よりお祈り申し上げます。



同時多発テロで崩れ去ったNYのツインタワーは、初めてのNY滞在で、最初に訪れた観光スポットであった。その前年、イタリアのフィレンツェで知り合った建築家の友人に連れられて、あのかつてのNYの繁栄を象徴する二卵性双生児ともいえるユニークなのっぽビルの上からマンハッタン島を一望したのだ。
その友人は、その後NYを離れ、別の場所で、成功した建築家として活躍している。ユダヤ人の血を持つアメリカ人であるので、9・11は、一層悲しい出来事であったことと思う。

他にもユダヤの血を持つNYの知人に、かの世界的写真家、ロバート・フランクさんがいる。私が詩人、アーティストとしてNYでデビューさせていただいた年のクリスマスが近づく十二月のある日、写真家の友人に連れられて、マンハッタンのブリーカーストリートのご自宅でご一緒に赤ワインをいただきながら、楽しいひとときを過ごした。フランクさんとは、その時初めてお会いしたのだが、とても気さくな方で、優しい温かい目をしており、冷蔵庫からチーズやプチトマトを出して、もてなしてくださった。その後も、横浜美術館の回顧展で来日された時、個人的な件で通訳をさせていただいたり、また、私のデビューCDの感想を、オリジナルプリントと一緒に贈ってくださるなど、心に残る温かな時間と思い出をいただいた。
フランクさんは、2011年の同時多発テロの後、心臓の病で数ヶ月の入院を余儀なくされた。その後、退院し、パリで写真展を開くなど健在ぶりが伝えられたが、多くのユダヤ人を強制収容所に送った、あのヒットラーのラジオから流れてくる声に怯えながら、子供時代をスイスで過ごしたフランクさんにとって、同時多発テロという出来事は、ひときわ重いものであったのではないだろうか。



東日本大震災が起きた日本時間の午後二時四十六分が訪れ、ラジオが黙とうの合図を告げた。現在、東京に仕事で滞在中の私は、偶然にも、3・11の時に居たその同じ部屋で、その時を迎えた。今も、三十四万人以上の方々が、避難生活を送っており、東北の大地には瓦礫の八割が今だ横たわっている。被災地の人口流出や仮設住宅のお年寄りの孤独死など課題は山積みなのだ。

私自身、福島で暮らしているため、これまでとは違う価値観の日常と向き合う日々を続けている。それは、そこで暮らしている者でなければわからない日々に違いない。
「曖昧な喪失」という言葉が心理学の言葉にあることを、9月11日付の聖教新聞に掲載されていたた、つくば国際大学教授の高橋聡美さんの「被災地のグリーフケア」、という記事を読ませていただきながら知ったのだが、今だ行方不明の家族を持つアメリカと日本の被災地の方々の、周囲に理解されにくい深い苦しみがあることを、私達は決して忘れてはならないと思う。

今朝読んだフェイスブックのコメントやアップロードされた言葉にも、"Gone but never forgotten."(過ぎ去っても決して忘れてはならない)という言葉があったが、この言葉は、あらゆる事故や事件でも常に聞かれる言葉である。



福島と東京を往復していると、震災と原発事故への意識の温度差が、時間とともに広がっていくように思えることがよくある。意識の高い人達も確かにたくさんいるのだが、日本人の特性なのだろうか。それを、福島に住んでいる私には直接語らない人の方がはるかに多い。

先日、友人の個展会場でお目にかかった方達の中に、反原発の活動について抱いている疑問や、それに関するご自身の考えを気さくに語られる方がいた。特別な話をしたわけではないのだが、関心を持っているということが伝わるだけで、当事者の心が軽くなるということはあると思うのだ。また、日頃から、何気ない会話の話題の一つとしてざっくばらんに話しているだけでも、社会の流れを変える意識の覚醒とその発展に役立つのではないかと思う。



大事なことは、忘れないことだと思う。自身に直接関係のないことでも、私達、人類は、豊かな想像力の持ち主であるのだ。
ジョン・レノンが、名曲、「イマジン」に歌うように、豊かな想像力は、豊かなことのために用いることで、豊かな世界は築かれるのである。偏見や差別、差異への拘りではなく、一人一人の命がその胸奥に抱く無限の可能性と生きることの限りない尊さへと、私達の多くが「イマジン」した時、目の前を開く素敵な扉があるのだと思う。




"Gone but never forgotten." 
9・11に出会った、この、より良い世界を築くうえで大切な言葉を心に刻み、前を向いて歩いてゆきたい。

毎日を新しい気持ちで「イマジン」しながら、未来へ向かう素敵な扉を、世界の多くの人々と共に手と手を取り合いながら、開いてゆきたいと思うのである。








2018-09-19 07:00:59 UTC



試練に鍛えられた命にはゆるぎない感動がある。

朝夕の冷え込みが気になる中秋から晩秋を迎えると、白河の家の小さなローズガーデンでは、育ち始めて今年で20年近くになる薔薇の花たちが、白河特有の高く澄みきった大空を背景に、鮮やかな、燃えるような花びらをほころばせる。
あれほど暑く、又、日照り続きであった今年の東北の夏を乗り越えた花たちが、この秋も、ひとつ、又ひとつ、と、みずみずしい姿で語りかけるように咲くのを見ると、何とも言えない、深い、優しい感動に包まれる。

廻る季節の中で様々な試練に遭いながら、時が来れば何事もなかったかのように咲く花たちは、生命の大いなる包容力の一つの象徴である。一輪の花の中にも命の宇宙の営みがあり、私たちひとりひとりを深く、大きく、温かく包み込んでくれるのだ。その感動は、取り巻く環境が厳しいほどに見る側の心に強い印象を与える。それは、思いがけない試練に遭いながらも、その試練によって磨かれる人間の魂の本質と重なるが故だろう。激しい温度差が秋の紅葉の色合いに欠かせないのと同じように、試練を乗り越えゆく人生には、感動という,褪せることのない命の美しさがあるのだ。

希望という輝きをあらゆる人々へ向けて放たれゆく美。
励ましという情熱をあらゆる時代へ向けて輝かせゆく美。

どれほどの困難の渦中にあっても、そのような美を求め、貫きゆく限り、人生の花は決して枯れることはない。たとえ、辛く、厳しい時期が繰り返されたとしても、必ず息を吹き返し、そして、息を吹き返す度に大いなる感動の輪を広げるのである。





先日、50歳という若さでノーベル賞を受賞するという大輪の花を咲かせた山中伸弥京都大学教授も、若い頃から多くの挫折と困難の連続であったと伝えられた。iPS細胞という夢のような業績の素晴らしさに加え、私たち日本国民の多くが心打たれたのは、それらの試練を、誠実と、感謝の心と、そして病に苦しむ多くの人々へのいたわりと優しさへと昇華し、自身の研究の一層の力へと換えてこられた山中教授の人柄ではないだろうか。

夢をかなえるには試練はつきものだが、その試練を耐え難い痛みととらえるのか、成長という最も大切な幸せに至るプロセスととらえるかで人生は180度変わるだろう。
試練によって、私たちは本物の優しさと強さへ向かってゆけるのである。たとえ時間がかかっても、そこで出会ったものこそが、人生からのかけがいのない贈り物であったと気づくことができる人は、幸せな人である。その幸せの味を知る人は、多くの人々に、励ましと希望という黄金の太陽のような命のエネルギーを贈れる人であり、試練とは、まさにそのために生まれてくるのにちがいない。

戦後まもなく、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞に日本中が歓びに湧いたと伝え聞く。同じように、今年の山中教授の晴れの受賞は、先頃行われたロンドンオリンピックと同じように、3・11後の日本の復興への大きな希望と励ましの力の一つと刻まれた。

多くの子供たちに夢を与える振る舞いを心掛けることこそ、真の平和貢献の一つと思う。私たち大人は、常にそれを念頭に置く必要がある一方で、それが又、わたしたち大人をも成長させ、成熟させ、そして、生きる歓びを深めるのである。





さて、話は家のささやかなローズガーデンへと戻るのだが、ガーデニングの基本は土とともに汗を流すことである。そのため、巡る季節の中で愛情込めて育ててきた花たちが美しく咲き誇る春と秋は、一年で最も忙しい季節であるとともに、最も歓びに満ちた季節である。

秋の薔薇は、春に咲く姿に比べると、花数が少なく、葉もおとなしいのだが、春の花にない独特の色彩の深みがある。その色合いは、秋のやわらかなきらきらした光に透明感を持たせながら凛として華やぎ、ボードレールの詩のように幾重にも濃密であり、精神的である。敬虔な、普遍なるものをつまびらかにした詩人や哲学者の言葉に耳を傾ける時のように、寛容と向上へと心が開かれ、生命の宇宙と一体になる命の神秘のとこしえを、あたかも味わうかのような美しさがある。




幸い育ててきた薔薇たちは、近所の多くの方々に愛していただき、庭で花の世話に明け暮れていると、道行く方々に声を掛けられる。
花を通して笑顔と言葉を交し合うようになるご縁は、ありがたいことに、年とともに増えている。

去年から今年の夏に掛けて、原発事故のことがあるため、ガーデニングを一年半休んだ。その時も、近所の多くの方々から温かいご心配をいただいた。

その間、花たちはどうであったかと言うと、肥料はもちろん、花を咲かせるために大切な剪定もしなかったのだが、そのような環境にも拘らず、よく咲いてくれた。その様子を室内の窓辺でみつめながら、花の持つ強靭な生命力に驚かされた。
「花たちはこんなに頑張っているのだ。それを目の前にして、私は何を恐れるというのだろう」。
このように自分で自分に言い聞かせながら、毎日何度も繰り返し起こる余震の恐怖とも闘った。




白河の放射線量は低いとはいえ、それでも3・11後はそれまでとは違う価値観で暮らさなければならない世界の住人の一人となった。そのため、日々の過ごし方は常に工夫を心掛けなければならない。それはガーデニングにおいても同じである。
肥料は、これまであたりまえのように用いてきた有機肥料から、リスクの少ない化成肥料を中心にしたものに変えた。薄手と厚手のゴム手袋の両方を用途によって使い分けながら、できるかぎり直に土に触らないようにしている。
とはいえ、作業しながら手袋が破れたり、外れたりすることがよくある。その度に、このような世界になってしまったことに言葉に尽きない悲しみを覚える。原発の無い、命を大切にする世界のための闘いをあらたな思いで決意する。



原発事故後初めて本格的に庭と向き合った最初の日、その現実の重さに疲労困憊し、このままガーデニングを続けるべきかどうか迷った。事故の前は、薔薇と一緒に育ててきたタイムやフェンネルやローズマリーなどのハーブを毎日の料理やリキュールに使う他、シーズンになると洗面器一杯の花びらをお風呂に入れたり、枕元に置くサシェに使ったり、と、無農薬のオーガニックガーデンならではの楽しみを家族とともに愛してきた。
そのような愛し方をすることは、これからはもうできないかもしれない。けれども、これまで花たちと分かち合ってきた優しい時間に感謝し、育ててきた私のみならず、近隣の方々の心を楽しませ、癒してくれてきた花たちに心から感謝し、そして、その花の心を、これまでと変わることなく一層愛してゆこう、と心に決めた。




 
ノーベル賞受賞の会見で最も心打たれた山中教授の言葉は、長年に渡り研究を支えてくれた多くの人々への感謝の心を表わす言葉だった。とりわけ印象に残ったのが、助手として山中教授を支えてきた若者たちへの感謝の思いと讃辞だった。iPS細胞という人類の夢を、自分の代で終わらせるのではなく、未来を担う若者たちにつなごうとする山中教授の心が伝わる素晴らしいふるまい、と、感動を新たにした。





大切なことは、繋ぐ努力を続けることである。短いようでいて長い人生である。環境やライフスタイルを180度変えなければならないことが、この先、幾らでもあるやもしれない。けれども、どんなことが起ころうと、今と未来に大切な心を伝える努力を諦めないかぎり、希望は生まれるのである。夢は続くのである。




今朝の白河は、冷え込みが進み、霜注意報が発令した。細かい水滴が窓硝子に広がる向こうには、私も家族も大好きな優しいピンクや純白の薔薇たちが、寒さに負けることなく咲いている。
その頭上を、曇り空とは言え、どこまでも高く大きな空が視界を遥かに越えて広がり、みつめれば、朝の清らかな太陽の存在を、ペイルグレイの雲の中にも感じることができる。
犬と散歩する近所の顔馴染みの何人もの人々の横を小学校へ向かう子供たちが通り過ぎ、変わらない暮らしの儀式が今日という二度と来ない貴い一日の幕を開ける。その様子を、この8月で13歳になった大切な家族の一員、猫のまふまふとともに見守りながら、エレノア・ルーズベルトの美しい言葉を、心の襞に差し込むきらきらした光のように思い出した。

私たちは
自分自身の心の中に
自らを照らす光を持っている

その光が
あかあかと消すことのできない炎をもって燃えるのでなければ
他の人たちの心に
永続する光を投じることはできない


(エレノア・ルーズベルト)


2018-09-19 07:00:40 UTC




命の尊さを伝える言葉には、世界を希望へ導く力がある。

先日、ハリケーン、サンディがニューヨークを含めたアメリカの各地域に甚大な被害をもたらしている映像を見るや否や、急いでニューヨークに住む友人達に、安否を確かめる為のメールとFaxを送った。
幸い無事であるとの返信が、その翌日には届き、ホッと胸を撫で下ろした。とはいえ、不運にも100人を超える方々が亡くなり、又、住む家を失った大勢の方々のことを思うと、3・11直後の日本の状況と重なり、今尚心が痛む。このブログをお読みいただいている読者のおよそ半数がアメリカの方々であるので、アメリカの読者の皆様、並びにご関係者の皆様のご無事とお幸せを、この場を借りて心よりお祈り申しあげます。そして、又、亡くなられた全ての皆様のご冥福を祈ると同時に、ご遺族に心よりお悔やみ申しあげ、被災された全てのアメリカ国民の皆様のご健康と、お幸せと、一日も早い復興を、心よりお祈りいたします。




サンディの影響で大統領選はどうなるのだろうと思うところもあり、それぞれの候補者の対応と発言に注目した。オバマ大統領の被災地への迅速且つ的確な行動をニュース映像で見ているうちに、きっとオバマ氏が勝つだろうとの思いが強まり、結局その通りになった。
様々な課題や問題があるものの、アメリカが真の改革ができるように、オバマ大統領の次の4年に心からエールを送りたいと思う。

オバマ大統領と言えば、魅力ある言葉の数々を優雅に使いこなしながら聴衆を感動へ惹き込む優れた演説の名手として知られる代表的な政治家の一人であるのだが、先頃行った勝利宣言のスピーチは、遠く離れた日本人の多くの方々にとっても胸を打つ、印象に残るものではなかっただろうか。
普段辛口で知られる日本人の知人の一人が、その感動と一緒にオバマ大統領の勝利宣言全日本語訳をツイートしてきたので、それを、普段からあまり呟く方ではない私も、他の多くのフォロワーの方々に加わり、リツイートした。知人は、「何故日本の政治家にはこのような感動的な演説ができないのだろう」、という内容のことを呟いていたので、もし、その原因を詳らかにしろといわれるとするのなら、おそらくそれは、「言葉の持つ励まし力の重要性に対する意識の差」によるのではないだろうかと思う。
その一点が希薄になると、どれほど念入りに準備されたスピーチも、聞く側にとって、温もりが抜け落ちた、ただの冷たい公約の説明になってしまうのである。

先日、某新聞の紙面に、「励ましは相手のやる気を引き出し、集中力を高める」、というような内容の記事が掲載されていたので、あらためて興味深く読んだ。
誰かの幸せを願うのなら、ただ心の中で思うのに留まるのではなく、その優しさを温かな励ましの言葉で声にし、届け抜くことが、やはり求められるのである。





聴衆という名の国民は、自分達の暮らしの行方を託す政治家から、その政治家の言う事が信用でき、そしてなによりも、やる気を引き出してもらうことを望んでいる。その為には、自分達に向けて語る相手の中に、自分達と同じ体温と、そして自分達を鼓舞する励ましの温もりを見出せる、ということが、大切なのだと思う。

とは言え、人類の歴史にはヒットラーやそれに類する悪しき例があるので、常に私達、庶民は、政治には目を光らせていなくてはならない。又、3・11後の日本人のおよそ80パーセントがテレビの報道を信じていない、と、昨今のある調査で弾き出された現象を生み出してしまった日本の政治とある種のテレビメディアが地に堕ちた原因を、選挙民であるという立場から今一度みつめ直し、もう二度と同じ事を繰り返さない国民へと、私達一人一人が手を取り合い、成長し、励まし合いながら進んでゆかなければなければならないと思う。





さて、話はハリケーン、サンディに戻るが、安否確認が取れたニューヨークの友人達の中に、10数年振りに会話をした友人がいた。ニューヨークでポエトリーリーディングアートパフォーマンスを行った際に、大変お世話になった大切な友達の一人である。

その友人の無事を確認した数日後、自身のブログでタリバンを批判したという理由で銃で撃たれ、重症にあったマララさんが立ち上がるまでに回復したとのニュースが流れた。マララさんの話は、日本のニュースでも取り上げられたようなので、このブログをお読みいただいている多くの方々も既にご存知でいらっしゃると思うのだが、初めてその名前を耳にする方の為に説明させていただく。マララさんとは、何度も自身のブログでタリバンを批判するのをやめるように、と度々脅迫されながら従おうとしなかった為、命を奪われかけるという、正義が故の人生の試練を受けながら、自由と平和の為の活動を続けるパキスタンの14歳の少女のことである。「学校に行きたい。勉強したい」という育ち盛りの少女達のごく当たり前の希望を、婦女子の教育を認めないタリバンの支配が強いパキスタンのとある地域にも拘らず、勇気の信念で貫いた為、瞬く間にその存在を世界で知られることとなった。
現在、フランスやカナダ等の欧米各国で、マララさんをノーベル平和賞に、との声が、市民の間で広がっており、彼女が治療で滞在中のイギリスでは、この程、その為に3万人の署名が集められたと伝えられた。
マララさんの勇気ある行動は何よりも気高く、勇敢であり、又、その存在は、差別と偏見の因習の中にある多くの虐げられた人々にとって、希望と励ましのアイコンである。
この少女の言葉に、どれだけ多くの人々が共感し、共鳴し、そして、一度は諦めかけた夢へ向けて再び立ち上がっただろうか。

3・11の時もそうであったが、大きな悲しみの中にも温かな希望の光りは必ず存在する。その光りを産み、そして育む為の言葉こそ、時空を超えて求められる真実の言葉と思う。
真実の言葉とは必ずしも耳障りの良い言葉とは限らないものである。しかしそれらは命を尊ぶ誠実と優しさと勇気から生まれ出るが故に、多くの人々の魂を揺さぶる。それを面白く思わない人々から一時は迫害されることがあっても、真実の魂の言葉を求め、守ろうとする人々が、立ち上がるのである。



日本の被災地はもちろんだが、サンディによる被害で傷ついたニューヨークをはじめとするアメリカの被災地でも、温かな希望の光りを、今も多くの人々が求めていると思う。
アメリカのこれからの4年間が、オバマ大統領の勝利宣言のあの美しい言葉のスピーチが果たして真実の言葉であるのかどうかを問う旅は、既に始まっている。その一方で、彼を選んだアメリカ国民自体も、彼が成し遂げようとしている改革のサポートの前進を、共に協力し、成し遂げる自分達へ、と、その内面や価値観を変革してゆくことが求められるのではないだろうか。
日本も解散総選挙が近いと言われて久しいのだが(何と、このグログをもう少しで書き終わりかけようかという今しがた、解散総選挙が決まったというニュースが・・・・12月4日公示、16日投票です)、その点においては、アメリカ国民と同じ様に、私達も私達自身の内面を、私達が望む国と政治へと向かわせる為に、常に変革を前進させてゆくことが必要であり、又、大切なのだと思う。

政治が変わるから私達が変わるのではない。
政治家を選ぶ選挙民である私達が、変わり、成長を続けゆくからこそ、政治家も政治も成長するのである。




来る解散総選挙は、耳障りのいいイージーなポピュリズム(安易な大衆迎合主義)を見抜き、聞き分け、冷静な行動をとるところに信頼される国造りの扉は開くだろう。
日頃から、目の前の一人一人の普通の幸せに尽くす貢献を地道に進めている誠実な肉声に耳を傾け、心を開き、共に皆で真の復興の為の選挙にしたい、と心から思う。


 

2018-09-19 07:00:31 UTC



終わりは始まりの物語である。

ふ、と気がつくと今年も残すところとなった。12月も半ばを過ぎると、時間というものが、まるで光のように過ぎゆき、瞬くもののような気がしてならない。

やり抜いたこと、やり残したこと、という人生の二つの峻厳なるカテゴリーを、一瞬振り返る。様々な思いが泉のように湧き、溢れるが、やはり、最後は、「ありがとう」、という今年過ごした全ての時間と空間と、そして何よりも縁した多くの人々への深い感謝の気持ちに尽きるのである。

日本においては、3・11という未曾有の出来事と福島原発事故、そして、それらにまつわる様々な出来事を味わいながらも、今もこうして生きていることの大切さ。又、信じ難い悲惨な出来事が世界中で存在しながらも、平和を望み、平和の為に人知れず行動を起こし、より良き世界と人生の為に一歩、二歩、と飽くなき前進を続ける多くの素晴らしい市井の人々に、今年もたくさんの勇気と、励ましと、そして優しさと感動をいただいた。


「どのような時代にも、いい事とそうでない事があった。大事な事は、それらを世界が良くなることの為に使うことなのだと思う」。このように言ったのは、元ビートルズのポール・マッカートニーであった。

「これからのことに集中しなくてはなりませんので、いただいたメダルを見ることはもうないと思います」
このように語られたのは、先日、ips細胞のノーベル賞授賞式後の会見の席における山中伸哉京都大学教授であった。
人生の栄華に甘んじることなく、又、人生の毀誉褒貶の全てを前進のエネルギーにシフトしてゆく山中教授の強さと誠実に、人間の素晴らしい可能性をあらためて見る思いがした。

大乗仏教では、本因妙(ほんいんみょう)といって、今この瞬間の自分自身が前へ向かう中に、過去と未来の両方を劇的に好転させる命の力が輝く、と説く。
何があっても、これからへ、これからへ、と前へ向かい続けてゆく中に、ゆるぎない本物の幸せは生まれ、育まれゆくのだと思う。
残すところおよそ10日となった2012年だが、今年も最後まで感謝の気持ちを大切にしながら過ごそうと思う。

「千葉節子オフィシャルブログHeart Planet Heart Galaxy by Setsuko Chiba」をお読みいただいている読者の皆様、今年一年大変にお世話になりまして、本当にどうもありがとうございました。皆様もどうかくれぐれも風邪をひかれませんようご自愛なさりながら、素敵な年末年始をお迎えくださいませね。


12月に入って間もなく、新しい友人が増えた。
facebookでつながっているものの、まだ一度も会ったことのない外国の人である。ある日、突然のように「明日、東京に行くのでお会いできませんか」というメールが飛び込んだ。一瞬戸惑ったものの、大変信頼している海外の友達の友達であり、更には、その友達のお墨付きでもあった為、メールをいただいたその翌日、東京駅の「銀の鈴」の前で待ち合わせたところ、末永く友人としてのおつきあいができると思われる大変に素敵な好人物であった。

一方、やはりfacebookで日常的におつきあいをさせていただいている方々の中で、誰が見ても素晴らしい人格の持ち主との評判が高い友人が、12月7日の宮城県沖の地震が起こる前に倒れ、今も意識不明の重体である。まだお子さんも幼いこともあり、一日も早い回復を、その友人を慕う多くの方々と共に、祈り続けている。

人生という生命の宇宙は、今この一瞬も止まることなく変化し、そして進んでいる。つい先日も、「太陽や星の引力が地震を引き起こす原因の一つではないか」、という内容のニュースがインターネット上にも流れていた。
明日何が起こるのかわからないのが人生であるとするのなら、少なくとも、縁する一人一人に優しく、温かなおもいやりをもって接したい。一人の力は限られていても、その心のふるまいは、きっと空気を通して見えないヴァイヴレーションのように伝わり、広がり、必ず世界とそして一人一人のより良き今とこれからを築く上での大切な力になると思う。


終わりは始めの物語である。
そのような思いで、この2012年を締めくくり、来る2013年を迎えようと思う。

澄み切った、冬のどこまでも伸びゆく清らかな高い青空のように、新たな年に、「ありがとう」、と、感謝の心を告げ、そして、伝えて、広げてゆこうと思う。




2018-09-19 07:00:02 UTC



命を思う深い心は時空をも超える。

連日の寒気が、日本列島を、その冷たい空気で覆う1月17日の今朝、阪神淡路大震災が起きて18年目にあたる日を、私達日本人は迎えた。

先週より、所用で東京に来ている私は、地震が起きた午前5時46分を、首都圏の高層マンションが立ち並ぶとある一角の一室の窓から、夜明け前の空を見上げながら厳粛な思いで受け止め、そして、多くの犠牲になられた方々とそのご遺族の皆様へ、深い祈りを捧げた。

18年前の1月17日、私は、アメリカはニューヨークにいた。前年の12月のクリスマスを前に、詩人、アーティストとしてのデヴューを、支えてくださる多くの皆様のお蔭でマンハッタンのとあるギャラリーでさせていただいた後暫く、トライベッカやローワーイーストサイドの幾つかのクラブやパフォーマンスの為のオルタネィティヴスペースに出演させていただきながら、自身のキャリアを磨く為、待ち受けている未来のプロジェクトの準備を重ねていたのである。

「日本の関西で大変な出来事が起きたらしいけど、知っていますか」。
阪神淡路大震災の悲報を知ったのは、『デイリィーン』という名のイーストヴィレッジにある60年代のブリティッシュロックが流れ,マーク・ボランの大きなポスターが壁一面に貼られたクラブで偶然出会った、日本人の男性に話しかけられた時のことであった。

その後、その惨事を伝える記事を’YOMIURI AMERICA’等の日系新聞で読み、雷に打たれたような衝撃を受けた。
海外で国内の大事件を知る時というのは、詳細を直に目で見て確かめにくいということもあるためなのか、にわかには信じられないという気持ちが強い。又、何かささやかでも役に立つ事はないのだろうかと逸る気持ちと裏腹に、目の前に積み上げられた様々な用事と、そして、海外滞在という物理的な海を越えた距離が、なかなか思うような行動に結び付けない時間を長引かせたりもする。



ところが、そのような壁の全てを乗り越え、すぐさま単身帰国すると同時に、真っ先に被災地、神戸に駆けつけた一人の勇敢な美しい女性がいた。
浮島とも子さん。その名前を告げれば多くの日本人には既に馴染みの人物であると思うのであるが、当時、世界的名門バレエ団のプリマであったその地位と名声を自らの意志で捨ててまで、住み慣れたアメリカの地を去り、被災地の子供達の為のサーカスを作り、神戸に希望を与える市民レベルのプロジェクトを立ち上げ、やがて成功へと導いた元世界的プリマバレリーナ、そして現衆議院議員である。

浮島とも子さんのこのエピソードは、随分前に放映されたビートたけしの番組、『アンビリーヴァボー』で知ったのだが、その後、浮島さんは、偶然にも、私が暮らす白河市の家の近所でバレー教室を営んでいる友人の知り合いであるという事実を知らされたこともあり、人知れず注目させていただいてきた素敵な多くの方々の中の一人である。当然お会いしたことはないのであるが、これまでの実績やそのお人柄を伝え聞くにあたり、このような深い慈しみの心と、才能と、そして、思い描いた事を実現する行動力を兼ね備えた美しい素晴らしい女性が、世の中に一人でも多く増え、そして、社会の様々なジャンルで活躍し続けるのであれば、広く世界に立ち込める長引く重たい古綿のような空気も、暖かな、柔らかな、明るい羽毛のようなものになるのではないだろうか。

先の衆議院選挙では、全体の有権者はもちろんのこと、若者の投票率が問題となったが、テレビが伝えないだけで、実際は、「この人なら」と思える信頼できる候補者に匹敵する素晴らしい人物が、私達が気がつかないだけで、いるのではないだろうか。政治に限らず、どの世界にも日頃からこつこつと地域や廻りの人達への貢献を惜しまない誠実な振る舞いを貫いている人はいるものである。そのような見えない所で尽力している本物の人物に、私達は光をあて、サポートしてゆくことが求められると思う。その為にも、偏見やイメージに振り回されない自立した精神と開かれた心の目を養い、そして磨いてゆくことが大切である。
以前にも書いたかもしれないが、政治家が変われば国が変わるのではない。政治家を選ぶ私達一人一人が変わるから、国は変わるのである。
無関心を決め込むことは簡単だが、その前に、自ら調べ、学び、行動を起す新たな意識改革の希望元年にしよう、と自分自身に私もまた言い聞かせている。




さて、浮島さんとは異なるパターンであるのだが、二年前の3・11の直後に起きた福島原発の事故の後、遠いスペインから放射能の問題が深刻な、当時のこの日本に単身駆けつけ、およそ一年に渡り滞在しながら、アートとジャーナリズムの視点を通してフクシマの現実と反原発のメッセージを広く世界に伝える取り組みを続けているパブロ・ド・ソトという男性がいる。彼の存在は、僭越ながらYouTubeに投稿していただいている私の動画、'Greatest Love Fukushima'を、彼がキュレーションをしているアメリカのウエッブマガジン、'Scoop it'の'Cartas desde Fukushima'において取り上げていただいたことをきっかけにして、知ることとなった。
日本に滞在する多くの外国人が逃げるようにして出国した当時、海の向こうから駆けつけて来た彼の勇気と慈しみの心溢れる行動を、日本で彼を知ることとなった多くの彼の友人達は、決して忘れることはないだろう。
浮島さんやパブロ・ド・ソトはもちろんであるが、命を思う深い心は時空を超え、そして、あらゆる障壁を越えるのである。その、傷ついた人々の心に寄り添う温もりある一人の人間の振る舞いが、絶望を希望へ変えゆく為の大いなる命の力になるということを、阪神淡路大震災から18年目を迎えた今日、新たな思いで想い起こす。




朝の光が家々の窓辺を染め上げ始めた頃、日本に暮らすとある外国の40代と思われる男性のツイッターに、印象に残る言葉をみつけた。

「18年前、ボランティアで走り回った神戸の街が綺麗になったのが嬉しいです。そして、今、私の心は東北の人々へと向かっているところです」。



今だ癒えない傷を抱えながら懸命に闘う人々がいる。けれども、その多くの方々の尊い一日一日の努力は、同じ日本とはいえ、阪神淡路から遠く離れた東日本の人々の心を、希望の灯かりで灯す最も大切な励ましの一つとなっていることを、私達は誰もが忘れたくはない。

たとえ小さな一歩でも、その前進の一歩の奥には、明日を、未来を、幸福と平和の微笑みで包みゆくダイヤモンドの不滅の輝きが生まれゆくことを、私達は、誰もが決して忘れたくはないと思うのである







2018-09-19 06:59:53 UTC


宇宙は瞬時も休むことなく私達ひとりひとりを希望へいざなう幸福の創り手である。

「空はいのちをつないでいる」というコンセプトで、空を被写体に「FUKUSHIMA SKY」という写真のプロジェクトを始めたため、ある時から、朝は4時に起きるというペースで、白河の家では過すこととなった。目が醒めたと同時に、ベッドの右側に位置する窓から外の様子を確認し、東の空が明るくなる前にはデジカメと一緒に家の門をくぐるのだ。

私の家がある福島県白河市は、那須の隣の高原地帯であり、そしてまた、家が山を切り崩して創られたと思われる高台の住宅地に建てられているため、見晴らしが良く、空を撮影するロケーションとしては優れているのだ。
その上、昨年仕事で三週間ほど滞在していたイギリスの空のように、白河の空もまた一日に何度もくるくるとその表情を変えるので、このプロジェクトを始めてからの毎分、毎秒は、一言では表しきれない深い歓びと感動の連続である。

それは、この「FUKUSHIMA SKY」という写真をツールにしたコンセプチャルアートが、私達ひとりひとりを取り巻く大自然という宇宙が瞬時も休むことなく未来へ向けて変化し続ける、という生命の普遍の法則を、はからずも体感せずしてはなし得ない表現であるからなのである。写真は瞬間を永遠化するのには比較的簡便なツールと思うところがあるので、刻一刻と猫の目のように移り変わる空の美しさの様々な魅力を通してこの普遍の大宇宙からのメッセージを表すのにはふさわしいミディアムと解釈している。

無常という言葉を耳にする時、哀しみに近い感情を抱く人々がいるかもしれない。が、それは正しい解釈ではない。無常とは、そして、変わるとは、喪失では決してないのである。

たゆみなく変化し続ける生命の目的は、どのようなことがあろうとも、常に幸福の創造にある、という命の摂理を、瞬間瞬間変わりゆく壮大な大空の絵巻物のような美の世界のささやかな目撃者の一人となって以来、その見る者の心を敬虔にしてやまない様々な豊かなる表情を通して、自身の細胞のひとつひとつに刻み、滲み込ませるような深度で、私は、日々、受けとめられるようになっている。そして、それは、二年前の東日本大震災と福島原発事故という未曾有の現実がもたらした想像もつかなかった人生を営み、歩みゆく上での大いなる希望であり、また、励ましの力であるかのようでもある。

変化は忘却ではない。変化とは幸せを創り続けゆくための命の行為なのだ。過去を教訓と定めて大空をみつめた時、心を塞ぐ幾重もの重たい雲にも必ず光が現れるのである。



「暗澹たるときでも真実を見限ることなく、
あきらめることなく何度でも試み、
愚弄されても、
屈辱を受けても、
敗北を喫しても、
くじけない人に、
栄誉は与えられます」

これは、南アフリカの人権闘争の父であり、27年半に及ぶ獄中生活を耐え抜き、アパルトヘイト撤廃後初代大統領となったネルソン・マンデラの言葉である。
様々な困難と試練と不安が渦巻く現代社会において、多くの人々を夜明けの太陽のように覚醒させ、青葉繁れる季節の青空のように晴れ晴れとした心に甦らせてくれるパワー漲るメッセージの一つと思う。

マンデラ元大統領が若かりし頃、南アフリカからアパルトヘイトが消えることなど、誰も夢にも思っていなかったのだ。けれども、それは、マンデラという不屈の魂と、そしてそれに続く多くの人々のあきらめない行動の継続によって現実のものとなったのである。

あきらめなければ不可能は可能になる、という、この、人類の歴史の法則を用いれば、戦争や核兵器、そして日本を含めた世界の原発がこの美しい惑星、地球から無くなる日も訪れるにちがいない。まさに継続と執念が世界と私たちひとりひとりをより良く変え、平和へ幸福へと導くのである。

もちろん、そのような前進の日々にも時折疲れを感じることは誰の日常にも訪れる。けれども、疲れて、寂しい気持ちに囚われて、まるでこの広い世界にたった一人取り残されてしまったように思えてならない時でも、自らの頭上に高く大きく広がる大空をみつめれば、みつめた大空と同じ豊かな、おおらかな、しなやかな自分に、人は帰れることができるだろう。

いつ、どのような時におかれても、私たちひとりひとりは大宇宙のかぎりない祝福に包まれているということを、決して忘れないで欲しい。その大宇宙からの溢れるばかりの愛を、慈しみを信じ、そのかけがいのない生命の滋養を受け入れる勇気を湧きあがらせて欲しい。
プロジェクト「FUKUSHIMA SKY」は、私たちひとりひとりをつなぐ、この大空の豊かさと美しさと、そしてまた、その下で生きる私たちひとりひとりの命の尊さと素晴らしさをひとりでも多くの人々に伝え、届けるために、3.11後始めたのである。作者は、ご覧いただく方々のささやかでも励ましとなれるよう、常に自らを磨き、鍛える日々でありたいと願う。あたりまえのことではあるが、作品は、作る人間以上のものには決してなり得ないのである。





先日の朝日新聞によると、日本人のおよそ71%が原発に対して反対の意向を示しているその一方で、およそ55%の人たちが、福島原発事故の記憶は薄れていると答えた、と報道した。

この数字が伝えるFUKUSHIMAと県外との意識の格差は、東京とFUKUSHIMAを往復する暮らしを続けながら、以前から私自身が感じていることの一つであり、今だ避難を強いられる多くの人々や私のように避難指定地域ではないにしろ低線量放射能地域で暮らす大勢の人々にとっては、身震いするような意識の温度差であるにちがいない。

人工的に引かれた地図の上での県境や国境はあるにしろ、地球という生命の次元でみつめれば、命はつながっているのである。
「空はいのちをつないでいる」という「FUKUSHIMA SKY」のコンセプトは、大空のまなざしでみつめることのなかに、私たちひとりひとりはもちろん、人類の、地球の課題を解決する鍵は存在しているというメッセージが込められているのである。




ひとりでも多くの方々にご覧いただければありがたく、また、嬉しいという思いで、ヴィジュアルアートを中心にしたサイト、【Setsuko Chiba 千葉節子 Art Heart Gallery】http://setsuko-chiba.amsstudio.jpを新しく開かせてただいた。このサイトをある程度の軌道に乗せるために、PCをほんの昨日始めたばかりのような私には多くの時間を割かなければならない現実があるため、日頃から多くの皆様に大変お世話になっているメインのブログ、【千葉節子 Heart Planet Heart Galaxy by Setsuko Chiba】の更新が、このように遅れましたことを心よりお詫び申しあげます。と、同時に、ありがたくも変わることなくお読みいただいてくださる多くの読者の皆様に、心より厚く御礼申しあげます。

さて、「FUKUSHIMA SKY」については、立ち上げて間もないプロジェクトにもかかわらず、大変ありがたいことに、優れたヒューマンオピニオン総合月刊誌として知られ、毎月35万部の発行部数を誇る「潮」(潮出版社)http://www.usio.co.jp/html/usioからエッセイの執筆をご依頼いただいたので、さっそく書かせていただくこととなった。4月5日発売の「潮」5月号の「波音」のページに、現在掲載されているので、興味をお持ちの方は是非お読みいただけますよう、合わせてどうぞよろしくお願い申しあげます。


数日前からいつものように仕事で東京で過す日々なのだが、東京の空を見ながらFUKUSHIMA
のあの深く、大きく、澄み切った美しい空を想う。
その心は、たとえどれほど痛みを伴おうとも忘れられない家族や友人を想う心に似ている。その空の美しさに胸が震え、人生の途中に首都圏から移り住んだ私ですらそうなのであるから、長年住まわれている避難地域の方々をはじめとする多くの住民の方々はどれほどの思いであろうか想像に難い。

環境と地球のために設けられたアースデーが過ぎゆくなか、ある美しい言葉に出会った。大自然の恵みと共生し、一体となる私達人間の魂の宇宙を表わした、北米大陸の先住民、アパッチ族の言葉である。その豊かな英知にインスピレーションを受け、生まれたのが、拙いながらもお届けする次なるひとひらの詩である。



昼には太陽の輝きがあなたがたを新鮮な滋養で満たし
夜には月の灯かりのやさしさがあなたがたをやすらげる

雨があなたがたの苦悩を洗い流し
吹く風があなたがたの存在を強くする

あなたがたよ
静かなる確かな日々のあゆみが
真に偉大なるものをあなたがたにもたらすことを知るのだ

どのような日々にも
人生の最も美しい輝きがあることを
今こそ
あなたがたよ
そのダイヤモンドの気高い不屈のこころとたましいで
大空のように喜ぶのだ





*文中引用文献:『ネルソン・マンデラ 私自身との対話』(長田雅子訳・明石書店)

2018-09-19 06:59:41 UTC



希望は、私たちという名もなき庶民ひとりひとりの命の尊極の貴さへの目覚めと、そして、その振る舞いの弛みない継続の中に生まれる。

2014年12月27日のことである。
東京は京王多摩センター駅から徒歩数分のところにあるパルテノン多摩において、今年で94歳になる現役写真家、福島菊次郎さんの講演会が催されるというので、師走の、ぴりぴりと肌を刺す空気の中、JRと私鉄を乗り継いで、いそいそと出掛けることとなった。

福島菊次郎さんと言えば、広島の原爆被害者の方々を被写体に、人道的なメッセージを力強く表した作品、『ピカドン、ある原爆被災者の記録』を、今からおよそ55年前に発表し、写真界の芥川賞と言われる『日本写真批評家賞特別賞』をアマチュア写真家の立場で初めて受賞した後、プロの写真家として、2011年の3.11東日本大震災と福島第一原発事故をも含め、戦後の日本の姿を今尚写真で表し続け、アメリカのニューヨークタイムズをはじめ、広く世界からをも注目を浴びている、まさに伝説的な人物である。

http://lens.blogs.nytimes.com/2014/01/02/photographing-hiroshima-fukushima-and-everything-in-between/?_r=0

「凄い迫力だったよ。是非見てみたら」
講演会の数日前から始まった福島さんの集大成とも言える膨大な量の作品が展示されている写真展を見に行った写真家の友人のひとりに勧められた私は、講演会が始まる2時間前に会場に到着し、多くの観客に混ざり、過去様々なメディアで発表された、それらハンドプリントによるオリジナル作品のひとつひとつを丁寧に拝見させていただくこととなった。

福島さんの写真は、いわゆるドキュメンタリーというカテゴリーだけに留まらない豊かな作家性をも孕んだものが多く見受けられ、国が密かに行ってきたその権力の魔性とも言うべき庶民に対する冷酷な振る舞いに対する糾弾、又、人命尊重と人権擁護に背く国家の独り歩きとも言える秘密裡に行われている戦略への告発、が徹底的になされればなされるほど、不思議と、いわゆる国家の大義に踏みにじられた庶民のひとりひとりへの眼差しが、一層の温かみを帯びてくるのであった。

まさにレジスタンスをその魂に刻み込んだおよそ55年に及ぶ写真家人生であるが故に、暴漢に襲われたり、自宅が放火される等、公私共に様々な受難をも経験してきたというのだが、写真家、福島菊次郎という名の反骨のレジェンドの原点は、真実への飽くなき執念を支える人間としての純粋な誠実と、そして、自他を含めた人間ひとりひとりの命に対する愛としての正義と慈しみの深さなのである。
それらをなくしては、これほどの歳月をかけてもなお終わらない一写真家の人生というものは、存在しないであろう。
近年、福島さんのライフスタイルをも詳らかにしたドキュメンタリー映画,『ニッポンの嘘』(長谷川三郎監督作品)が公開されたのをきっかけに、比較的若いジェネレーションの人達をも含め、その存在が再びクローズアップされているのは、、日本のみならず、世界が第三次世界大戦へと向かうのではないか、という政治に対する多くの人達の憂慮、そして又、それを払拭する「希望の存在」を求める人々の自然な気持ち、が、その背景にあるのではないだろうか。



自己愛を表すだけでは、表現は、芸術は、その使命を果たせない時代に来て久しいのである。
それを明らかに如実に感じるようになったのは、バブルが終焉を迎えた直後とも言えるタイミングで起きた9.11、アメリカの同時多発テロ前後であった。

深すぎる悲しみを背負った時、その深さに届く光は、おおいなる愛を必要とする。
3.11を含め、過去の大戦から戦後を更に進めた現代において、物質的な豊かさの陰で常に問われ続けてきたのは、この「おおいなる愛の欠如」であったのではないだろうか。
表現、そして芸術が果たすべき使命も又、そこに存在する、と、一詩人、一芸術家として、常に自覚と成長を怠ることなく自らの人生の歩みを、たとえ一歩づつでも進めたいと願う日々である。





写真作品を拝見している内に、講演会が始まる時間を10分ほど過ぎてしまったことに気がつき、慌てて講演会場であるホールへ向かい、扉を開けると、客席はほぼ満席であり、福島さんの姿がステージに現れるのを、全員が待ち詫びているムードであった。
会場の、愛と希望を求める人々の、その生命の情熱に応えるかのように、ほどなくして現れた福島菊次郎さんは、その日本の戦後をつぶさにみつめてきた瞳に温かな優しさを漂わせたストイックな青年のオーラであった。
司会とゲストを担う詩人のアーサー・ビナードさんとの対談形式で行われた講演は、反骨のレジェンドとしての信念を、その内容の中枢に携えながらも、穏やかさとユーモアと爽やかさに溢れ、その94年に及ぼうとする人生を送るひとりの人としての圧倒的な存在感を最後まで保ち続けた。

およそ3時間の講演が終わりを迎えた時、運営スタッフから観客に質問のマイクが差し出された。限られた時間であったらしく、二人の観客からの質問で閉じられたが、もし、もう数分時間が許されたなら、手を挙げて、「福島さん、よろしければ是非福島県でもご講演下さい。多くの県民がお待ちしております」、と、申し上げたいところであった。
「フクシマの孤独」には、除染と避難地区の解除という現実の陰で、日に日に深まって止まないものが存在することを、一体誰が否めるというのであろう。そして、その深すぎる孤独が求めて止まないものほど、日本と、そして世界の良心が求めて止まない「おおいなる愛」であることをも又、誰が否めるというのであろう。



明けて2015年の元旦、いつものように夜明け前に起き、仕事に取り掛かる支度をする中、テレビのBS1に流れた番組は、あろうことに第二次世界大戦に関するアメリカのドキュメンタリーであった。元旦に観る映像からはおよそかけ離れた内容のものであったので、「これは何の為のプロパガンダなの?」、と、一瞬、目を疑い、それよりは遥かに心の滋養になると思われる大自然の美しさを取り上げた映像を流していた他のチャンネルに切り替えた。

フクシマの元旦は、穏やかなまでに美しい旭日に彩られた、平和的な、牧歌的な朝であった。
その祝福の光を一目見ようと集まった近隣の人々の心は、今年の幸せへの誓いに漲っていたに違いない。
この庶民のひとりひとりの暮らしの安全と幸せの為の希望は、どこにあるのだろう、と思った瞬間、
前の講演会で語られた福島菊次郎さんの写真が、記憶の中を蘇り、それをフォローするかのようなある芸術家で平和活動家でもある人物の、およそ次のような言葉を思い出した。正確ではないので、ご本人に対して、又、このブログをお読みいただいている読者の皆様に対しても大変失礼ではあるのだが、もし、お許しいただけるのであれば、意訳を多少交えて、その要約を、誠意と平和への祈りを込めてご紹介させていただきたい。

「福島さんの写真を見ていると、時代を作っているのは、実は、僕達民衆ひとりひとりであるのだということに気づかされます。僕達の意図に反して、国家は僕達が望んでいないことをやり続けているかのように振る舞いますが、僕達のひとりひとりが正しく目覚める中に本当の民主主義と希望が存在するのだということを、福島さんの写真は、物語っているように思うのです」。









2015-01-10 15:16:45 UTC

笑顔は魂の太陽である。
20日振りに戻った新白河駅の改札口でのことである。 新幹線の改札を出ようとした瞬間、いきなり改札のドアがガシャンと閉まった。どうしたのだろうと思ってみたら、誤って新幹線のチケットではない使用済みのどこかの私鉄の指定席のチケットをバッグの中から取り出して、気がつかないまま自動改札機に入れていたのであった。慌てて新幹線のチケットを探すのだが、これがなかなかみつからない。
東京で使った撮影用の服やアクセサリーが詰め込まれた重いスーツケースの他に、ラップトップPCと両親へのお土産が入ったショルダーバッグを片手に持ちながら、小さな薄い紙である新幹線のチケットを速やかに探し出すのは、簡単なことではなかった。「失くしたとしたら又同じ金額を払うことになるのだろうか・・・(因みに東京ー新白河は5980円である)」。そんなネガティブなイメージを払拭しきれないまま探すことおよそ5分。ようやくみつけたものの、半分パニックになりかけながらの物探しほど神経をすり減らすものもなく、旅の疲れと重なりあうかのようにどっと疲労が溢れ出たのであった。ところが、不思議なものである。その様子を、じっと注意深くみつめていた新白河駅の駅員さんたちと目と目があった瞬間、瞳に飛び込んできた彼らの温かな、屈託のない笑顔に、すーっと、疲れが癒えるのを感じたのである。なんとも言えないやすらかな 純粋な感覚。ひとびとの善意につつまれているような、ふんわりやわらかな、優しい感覚。「またここに帰ることができてよかった。帰る場所がここでよかった」。言葉で表すとしたら。そんな感じであろうか。 笑顔はひとを幸せにする。そして、ひとを幸せにできるひとこそ最も幸せなひとなのだ。
白河で暮らし始めて最初に気がついたのが、知らないひと同士でも道ですれちがうと互いに挨拶をするひとが多い、ということであった。このような光景は東京ではまず見ることがなかったので、当初はまるで外国にいるような感じがした。フランスやイタリアのようなラテンの国に見られる気さくさ、明るさ、朗らかさ。白河の深い森と、心が突き抜けるまでに高い大空が、そのようなおおらかさを創りあげているのだろうか。以前、近所の小さなお子さんがいる女性が、「ここに越してきたら、もうひとり子供が欲しいと思うようになりました」と言っておられたが、日本の小子化対策に役立つヒントが、この土地にはあったのかもしれない。



「地震が起こらないところで暮らしたい」。阪神淡路大震災が起こった16年前。父のたっての希望で、住み慣れた首都圏を離れ、私たち家族はこれまで一度も訪ねたこともない白河の地に移り住んだ。その頃の父の調査によると、白河は地盤が固く、巨大地震が起こることはまずないだろうということであった。ところが、去年の東日本大震災で、白河は震度6強の地震に襲われた上に福島第一原発の事故の影響も受け、被災地のひとつとなった。多くの家々が倒壊し、何人もの方々が亡くなり、多くの方々が他県に移った。
想定内の人生などないのである。しかも、人知を超える次元で地球は,宇宙は,生命は、瞬時も休むことなく動いているのだ。大事なことは、どこに住もうと、何が起きても起きなくとも、一日一日を大切に、昇りゆく太陽のように前向きに生きるということに尽きるのではないだろうか。
大震災の前の年、白河の市民ホールに歌手でユニセフ大使のアグネス・チャンさんがコンサートにみえ、「ピースフルワールド」と名づけられたそののびやかな歌声のステージで、素敵な話を聞かせてくれた。「Happy birthday to me!」。毎日を生まれ変わったつもりで大切に過ごしましょう、という意味らしく、朝起きると必ず自分で自分にそう語りかけるのだそうだ。自らも癌と闘われながら、世界中でボランティア活動を続けるアグネス・チャンさんの優しさと強さの両方を湛えた美しい笑顔は、このようなところから生まれているのかもしれない。
改札を出ると、駅の構内に置かれた椅子とテーブルが、年配の女性たちの華やいだ笑顔で賑わっていた。ドレスアップしているところを見ると、これから楽しい春の旅へと向かうところなのだろう。およそ20日前、東京行きの新幹線に乗る前に見かけた赤いチューリップは、花が小ぶりになったものの、変わることなく窓辺で愛らしく咲いていた。桜はまさにこれからで、東京に引き続き、二度目のお花見を白河で味わうことになるだろう。
スーツケースをごろごろ転がしながら外に出ると、いつものことながら東京よりはるかに気温が低く、小雨が降っていた。その雨に煙る向こうに、母が運転するスカイブルーのTOYOTAが見えた。母の私をみつめるやわらかなシルエットがゆっくりとこちらに近づいてくるのが見え、原発事故後、東京から白河へ戻る時に抱く、ある張り詰めた緊張感が、ゆるやかに解きほぐされてゆくのがわかった。
その優しいなめらかな感覚を味わいながら、どこにいようと笑顔という魂の太陽とともに生きてゆこうと、あらためて思った。どんなことが起ころうと、目の前のひとりひとりを笑顔にする太陽の人生を歩んでゆこうと、こころから思った。

2015-01-09 11:42:52 UTC


アカデミー賞に何度もノミネートされているアメリカの人気俳優、ジョージ・クルーニーが、アフリカのスーダンの人道支援を訴えていたさなかに、同じく活動に参加していた78歳の実父とともに逮捕された、と、日本時間15日、CNNで報じられた。保釈金100ドルを払ってまもなく釈放されたが、容疑はスーダン大使館内に無断で侵入したためだという。当人は困惑したことと思うのだが、ニュースは世界中を駆け巡り、大勢の人々が、スーダンの問題を改めて認識することとなった。若い頃から人権活動に熱心に取り組んでいることで有名な彼は、2008年に国連大使に選ばれ、自らもマラリアにかかるほど現地に赴いたといわれる。この件がどのように扱われてゆくのかは今後の推移を見守るしかないが、素敵なお父様とともに、是非元気に活躍を続けてもらいたいと思う。




ジョージ・クルーニーに限らず、世界ではアーティストが人道支援や政治活動にあたりまえのように携わる例は多い。それは、宗教的バックグラウンドもさることながら、アートが個人の表現に留まらず、真理や真実を代弁するとともに、心や魂を喚起し、ひととひととをつなぐポテンシャルの高いものであるためだろうと思う。1995年の5月、仕事で初めて訪れたパリで、自身のパフォーマンスを済ませたのも束の間、いきなりパリの武道館と当時いわれたゼニットで、ホームレスの人達のためのチャリティーコンサートに出演させていただく運びとなった。終了後、アフリカのテレビ局のインタビューを受け、日本のホームレスの現状、そして又、日本の詩人としてこの問題をどう捉えるのかという質問にもお答えさせていただくこととなり、多少なりともお役に立てられたことに、当時お世話になった関係者の皆様には今も心から感謝している。   東日本大震災が起こった際、国内の様々なアーティストの方々の活躍は本当に素晴らしいと思ったが、レディーガガをはじめ、多くの海外のアーティストの方々からも、私達は励ましをいただいた。今尚続く余震に加え、放射能の問題で出国する人達がいるのにもかかわらず来日する彼女達や彼達の姿に、ビジネスメリットだけでは測り切れない何かを、多くの日本人は見たのではないだろうか。「こんな所までよく来てくれた」、「こんな遠い所までよく訪ねてくれた」というのが、素直な気持ちだと思う。人は、人が来てくれることが嬉しいのだ。人が訪ねてゆくことが尊いのだ。その最も尊い行為を続けているのが、被災地の大勢のボランティアの方々だと思う。




2月22日配信の読売新聞で、大阪市の橋本市長が、「金だけ出して世界から馬鹿にされた屈辱を思いだす。日本は情けない国になった」と、湾岸戦争の時の日本の対応と今の瓦礫問題の現状を重ね合わせて発言したと伝えられた。様々な意見と立場、そしてひとりひとりのいのちを尊ぶという大前提がある限り、現地視察と試験焼却により住民の方々に納得していただく努力を続ける静岡県島田市のように、徹底的な調査と情報の透明性は必須と思う。不透明が故に不安なのであり、不信なのであり、本当は、人間の多くは、正しく良いことをしたいのだ。  2月1日付けの島田市長に宛てた市内に暮らす高校一年生のメールにこのような言葉があった。 「・・・・瓦礫の受け入れ、それは確かに被災地の大地の復興に繋がります。しかし、それ以上に被災地の方々の心の復興に繋がると思います」。



自らのふるまいは、どんなにささやかなことでも廻り廻って返ってくる。この人生の峻厳な因果の方程式を想い起こす時、目の前の雲の上から一筋の光が射すように思う。そして、その光は、迷いという自身の小さな殻を、又一つ破り、大きな自身へと歩ませてくれるように思う。正しく良いことへと歩むいのちの勇気の道を、示しているように思う。

2014-12-21 13:40:22 UTC

「広島の薔薇」という名の美しい調べの歌に出会った。開催中のロンドンオリンピックで、なでしこジャパンがフランスに勝利してメダルが確定した日のことだ。多少の言い回しの表現に違いがあるものの、ほぼ同じと思われる文章の出だしでこの歌に触れるのは、このブログで4回目になる。今ひとつ工夫が欲しいところとも思うのだが、意匠の細部に拘る間もないほど、実は、私にとって胸を揺さぶられた歌だった。
「広島の薔薇」とは、第二次世界大戦において日本に投下された原爆をテーマに、平和への祈りを込めた歌であり、ブラジルの有名なアーティスト、ネイ・マドグロッソが1973年にリリースした1stアルバム(当時はSecos e Molhadosというバンドに参加)に収録されている。その美しいカウンターテナーの響きが伝える歌詞は、原爆の残酷さへの人道的な怒りと命に対する慈しみの深さを表わしており、そのストレートな平和への思いに、心が打たれた。又、作詞を手掛けたのが、あのボサノバの魅力を世界に届けた名作、「イパネラの娘」の詞を書いた、ベニシウス・ジ・モラエスであるということも、驚きであった。が、それ以上に、地球の反対側のブラジルで、およそ40年も前から、このような歌が多くの人々によって愛されてきたということが、何よりも嬉しい驚きであった。1970年代と言えば、東西冷戦の時代であるので、核への恐怖は 今とはいささか異なる臨場感を加えた内容の、緊迫したものであったのかもしれない。それにしても、日本から遠く離れた海外で、あたかも自分たちのことのように、日本で起こった出来事を受け止めてくれていたのだということに、何ともあたたかい優しい気持ちにさせていただいた。ブラジルの皆様、そして、この歌を愛してくださる世界中の皆様への深い感謝の言葉に絶えない。
さて、「広島の薔薇」を知ったのは、ようやく今年の2月の末から始めたfacebookにおいてであった。ふと見かけた、あるブラジルの人のウォールに広島の原爆の写真がアップロードされており、そこに寄せられたyoutubeの動画が、ネイ・マドグロッソが歌う”Rosa de Hiroshima"であったのだ。一方で、原爆の写真への「いいね!」とそしてコメントの数が多いのに驚いた。それらのリアクションのほとんど全てが、核への抗議とそしてそれをコントロールしている一部の権力者、そして、又、戦争に対する否定的な意見であった。
そのコメントの一つ一つを読ませていただきながら、国や文化が異なっても、平和を求める心は一つであることに、改めて気づかされた。多くのブラジルの方たちに加わって、私が「社会を変革するのと同時に、私達一人一人が自らの意識と内面を命の尊さを第一に考えるものとして変革することが大切です」とコメントを送ると、「あなたの考えに共感したわ!」というコメントが幾つも返ってきた。SNSは、まだまだ勉強中なのだが、より良い今と未来の為の声を響かせるものとして使うのであれば、素晴らしいツールであるのだという実感が、初めて湧いた。自身のIT化の遅れを露呈するようではあるのだが、この機会を通して、自分自身の声がインターネット上で初めてIDを得たような気がした。


前回のブログでも書かせていただいたが、原爆と終戦という国家の歴史上の理由の為、8月は、日本人にとって特別な月である。過去に囚われてはならないが、過去の過ちを忘れず、今に、未来に、生かさなければならないと思う。良心のないところには、繁栄も幸せも本当には存在しないのだろう。その意味を含めて、「広島の薔薇」の歌詞を拙いながらも訳させていただいた。ポルトガル語なので、色々な方々に助けていただきながらの作業である。この訳した歌詞をご紹介させていただくのも、これで、やはり4回目になるのだが、一人でも多くの方々にお伝えしたいという思いから、このブログをお読みいただいている方々の中に、私の他のサイトで既にご存知の方がいらっしゃるのでしたら、その旨、ご理解いただけますよう、どうぞよろしくお願いいたします。
 今日は8月9日。広島に続いて長崎に原爆が投下された日である。戦争で亡くなられた世界中の全ての人々のご冥福をお祈りすると共に、ヒロシマが、ナガサキが、スリーマイルが、チェルノブイリが、そしてフクシマが、この私たちの美しい惑星、地球はもちろん、宇宙のどこの星でももう二度と起こらないことを、心の底から祈りながら、夜が明けるのと同時にこのブログを書き終えた。
東の空に立ち昇る8月のプラチナ色の神々しいまでの光の中で、今日という一日を悔いなく生きよう、と、心から思った。


~ヒロシマの薔薇~
音を失い テレパシーで話をする子供たちのことを考えてごらん
光を失い 目でものを見ることができなくなった少女たちのことを考えてごらん
歓びを奪われ 人生をはぎとられた女たちのことを考えてごらん
燃えるような紅い薔薇の傷を持った人たちのことを考えてごらん
忘れてはならない 忘れてはならない
薔薇のことを 薔薇のことを
ヒロシマの薔薇 受け継がれてゆく薔薇のことを
歓びも 幸せも 奪い 壊してゆく 放射能の薔薇のことを
色もない
香りもない
薔薇なんかでは決してない
何もない
ありえない
どこにもあってはならない

2013-01-15 12:54:45 UTC
 
 
デスボロー卿という人物をご存知だろうか。自らもオリンピックに出場するなどイギリスを代表するスポーツマンとして活躍しながら、1908年、ロンドンに初めてオリンピックをもたらしたロンドンオリンピックの産みの親である。
ロンドンは、世界で最もオリンピックを開催している都市。現在行われている大会で三回目になる。1908年当時、元々イタリアのローマで行われるはずだったのだが、ヴェスヴィウス火山の爆発で大惨事となり、オリンピックどころではなくなってしまったローマに代わり、「では、わが国が引き受けましょう」と間髪も入れずに手を挙げ、その成功へ向けて陰に日向に率先して尽力したのが、実は、このデスボロー卿であったという。その後、第一次世界大戦へと向かう当時の世界の緊迫した情勢の中、平和と融合の思いを、オリンピックというスポーツの祭典に託したデスボロー卿の紳士の振る舞いは、イギリス国内に留まらず、世界のスポーツ史に、今も深く刻まれている。


そのデスボロー卿ゆかりの歴史的品々を公開し、デスボロー卿の信念でもあられた「時代を超えて、人と人、国と国とを結ぶオリンピック精神」の大切さと素晴らしさを伝える展示が、丁度オリンピック前に滞在していたロンドンで行われているというので、かねてから伝え聞いているロンドン郊外の豊かな自然に触れるという目的もあり、訪れることとなった。


 
 
会場は、パデントン駅から列車で数十分のタプローという名の、テムズ川上流の緑豊かな町の中にある、目の醒める様な美しい館だった。敷地の総面積は十万坪。イギリスの伝統的な貴族の暮らしの様子を鮮やかに伝えるその建物は、1866年から1945年迄、実に、デロスボロー卿の私邸であった。が、その後、人の住まない館となり、荒廃していたところをイギリス国内のさる仏教団体の多くのイギリス人と日本人のボランテイアの人々の手で、何年にも渡って修復を重ね、平和と友好の城として、地元の人々に愛される現在の姿に甦らせたのだというのである。
私が暮らす福島県白河市の新白河駅から車で数十分のところに、British Hills という名の、12,3世紀から17世紀のイギリス貴族の建物を本国から運び、そのライフスタイルを再現した素晴らしいエリアがあるのだが、昨年の大震災で、そこへ至る道が崩れたため、一時通行止めになった。その後修復され、現在、道は開通し、これまでと変わらない様子であるようだ。


 
 
事情と場所は違っても、蘇生に大切なのは、人々の手なのだ。どんなに荒れ果てた家でも、土地でも、心でも、再起を信じ、その蘇生に粘り強く取り組む人々の、尊い、温かい手がある限り、必ずや甦るのである。
いよいよファイナルへと向かうロンドンオリンピックだが、前回迄の大会を上回るかのような日本人選手の活躍に、胸を熱くしている私たち日本人の何と多いことだろう。私を含め、たくさんの感動と勇気を、闘う選手たちの姿を通して心に刻み付けていることと思う。メダルはもちろん素晴らしいが、大震災という国家レベルの逆境に負けることのない人間の底力を、オリンピックという世界の檜舞台で見せてくれている選手たちひとりひとりの人間的魅力に、一層魅了されるところがあるのだと思う。

 
 
オリンピックに沸き返る8月は、6日がヒロシマ、そして9日にはナガサキ、に原爆が投下された月である。「何十年も草木は生えない」と言われたそれぞれの被爆地は、長い風雪を経ながらも今日の姿までに甦ることができた。原爆と原発事故という核の宿命を背負った私たち日本人が世界で果たす役割は、広大な宇宙に浮かぶ青い惑星、地球を、子供たちの未来に恥じないものにしてゆくなかにあるのではないかと思う。命の限りない尊さを決して踏みにじることのない生命の星、地球へ、と、甦らせゆく行動のなかにあるのではないかと思う。
 

さて、話は戻るのだが、美しい小さな宝石箱のようなタプローの町に佇むロンドンオリンピックの父、デスボロー卿の元私邸、タプローコートでの展示の中に、「女性とスポーツ」、「スポーツと戦争」という内容のものがあった。そこには、デスボロー卿の生涯を貫いた「平和」への信念が見事なまでにも描かれているのと同時に、スポーツを通した当時の社会の様々なことを訓えられる貴重な歴史的文化の深い香りが漂っていた。ロンドンオリンピックが終了後、9月16日迄開催予定ということなので、興味のあられる方には是非おすすめのスポットと思う。どこまでも高く、そして最果てまでにも広がりゆくかのような大空を抱きしめる、豊かなイギリスの自然の中で、私たち日本人はもちろん、世界の人々と分かち合ってゆかなければならない大切な心の宝物に、きっと出会えると思う。
 

注: デスボロー卿の展示とその人となりについての詳細は、潮出版「パンプキン」2012年10月号に掲載させていただきました。興味をお持ちの方は、是非、バックナンバーをご覧ください。

2013-01-13 19:11:09 UTC

夢は人生を諦めない自身の底力の中にある。

ロンドンオリンピックの感動と熱狂が醒めやらぬ、炎のような残暑の中、もうひとつのスポーツの感動の物語、パラリンピックが始まろうとしている。様々なハンディキャップを持ちながらも決して諦めず、果敢に自身の夢と限界に挑戦し続ける選手の方々の活躍は、通常のオリンピックはもちろんだが、時にそれ以上に心を揺さぶられるものがあると思う。

夢を見ても、その夢を叶えるために取り組まなくてはならない様々な現実を嘆いている内は、その夢は永遠に夢でしかないだろう。「限界は自分が決めるもの」という言葉があるが、目の前の壁を限界と思うのか、それとも挑戦と思うのかで、夢は、そして人生は、大きく変わるのだ。



スポーツは、生まれ持った身体的な能力によるものが大きいと思っているところがあったのだが、パラリンピックの選手の方々の活躍の様子や、そして又、その活躍のひとつひとつに秘められた人生の物語を知れば知るほど、「才能は努力の異名」 という、誰もが昔から知るこの言葉を、厳粛な思いで新たに受けとめることができる。

ひとりひとりの命の中にある自身の壁を破る測り知れない力、不可能を可能にする生命の希望の力、の存在に触れる素晴らしい機会を、多くの人々は、いつの時代も求めているのだ。

夢は人生を諦めない自身の底力の中にある。人間なら誰もが抱く、その秘めたる底力を信じ、そして、それを湧きあがらせながら一日一日を前へ前へと歩むことが、生きるということなのだと思う。

生きるとは自分という人間を信じ抜く勇気の異名なのだ。

来る8月29日より始まるもう一つのスポーツの祭典、パラリンピックは、国をあげての復興に取り組む私達日本人に、新たに夢を与え、そして命の測り知れない可能性を信じるとても素敵な機会の一つのように思う。



さて、パラリンピックは、その発祥の背景をご存知の方も多いと思うのだが、「手術よりもスポーツを」の理念に基づき、戦争で負傷した兵士達の蘇生のために始められたのがそもそものはじまりであった。ドイツから亡命した在イギリスのユダヤ人医師、ルードヴィヒ・グッドマンの提唱で、1948年7月28日、第二回ロンドンオリンピックの開会式と同じ日に、当時、第二次世界大戦で脊髄を負傷した軍人のリハビリ専科があったストーク・マンデビル病院で行われた競技会が、後のパラリンピックへと発展したのだという。因みに、このグッドマン医師を中心に描かれたパラリンピックの物語は、地元イギリスのBBCにより「Best of Men」のタイトルでドラマ化されている。


思えば、近代オリンピックの産みの親、ピエール・ド・クーベルタン男爵も、1870年代、プロシアとの戦争の敗北を引きずり、沈滞ムードにあった当時のフランスを甦らせようと、スポーツを取り入れた教育改革に取り組み始めたのであった。そして、それがきっかけとなり、後の「国際交流と平和貢献」というオリンピック精神の原点へとつながっていったのである。
クーベルタン男爵は、元々大のイギリス嫌いで知られていたのだが、極めて紳士的にスポーツに取り組むイギリスの青年たちの姿を目の当たりにするや否や、大のイギリス好きに変わったのだという。まさに、スポーツは心の壁を越える、と思える素敵なエピソードである。


感動の渦の中でオリンピックが終わり、次のパラリンピックへの期待が高まる8月20日、日本人ジャーナリスト、山本美香さんが、内戦が激しさを増すシリアで取材中、銃撃され、亡くなった。山本さんの訃報は、国内はもとより、BBC、France2、そして、アルジャジーラ、と各国の放送局が一斉に伝え、その若すぎる死を悼んだ。
立場も状況も当然異なる私事であるのだが、実は、その昔、大学を卒業して間もないフリーの新聞記者であった私は、ライフル銃を構えた兵士達が行き交うカンボジア難民キャンプを取材し、長い内戦が人々にもたらす過酷な現実を肌で感じる経験をした。そのため、山本さんの死は、とても他人事とは思えない。国内外を問わず、戦場ジャーナリストの方々の訃報が流れる度に、その死を悼むとともに、戦争をはじめとする全ての暴力が、この生命の惑星、地球から無くなることへの思いを新たにしてやまない。


スポーツが、心の壁を乗り越え、不可能を可能にするのなら、そのスポーツを愛する私たち人類は、戦争を作り出す、偏見、憎しみ、差別、支配欲、エゴイズム、という人類の歴史の壁をも、いつの日か必ず乗り越えることができるだろう。



そのオリンピックの原点としての平和へ向かう魂を、今一度思い越しながら、開幕までカウントダウンと迫ったパラリンピックを応援したいと思う。不可能を可能にする選手の方々の自身の壁を破る勇気の闘いに、心からの拍手を送りたいと思うのである。

2012-11-01 11:51:33 UTC
 
先週、仕事で訪れていたロンドンから帰国した。およそ一月間の旅である。
その間、インターネット環境が限られたものとなっていたため、ブログはお休みさせていただいていた。帰国後、なるべく早く更新したかったのだが、これまで経験したことのないような激しい時差ボケが続き、まるで地球を飛び越え、月と火星の反対側で呼吸をしているかのような不思議な睡魔の海に何日も漂っていた。それが、ようやく終わりつつある頃、西の方から梅雨が明け、6月というのに、コートやセーターを着なければならないほど寒かったロンドンとの激しい気温の格差になかなか体がついてゆけず、今は、こまめに水分を補給しながら、早目の夏バテにならないように工夫を余儀なくされる日々である。
「千葉節子オフィシャルブログ Heart Planet Heart Galaxy by Setsuko Chiba」、をお読みいただいている皆様、暑中お見舞いを心より申し上げます。皆様も、どうか暑さにはくれぐれもお気をつけてお過ごしくださいませね。
 
さて、オリンピックを目の前に控えたロンドンは、一層コスモポリタンな、世界のホットスポットであった。アルコール依存症対策で割高になったにもかかわらず、パブは相変わらず明るい内から賑やかであったし、ピカデリーやアールズコートをはじめとする主な中心エリアの地下鉄の駅前や繁華街は、深夜と早朝以外は、赤ちゃんからお年寄りまであらゆる国籍の人々の行き来で溢れかえるほどであった。
 
とは言え、人々の間でオリンピックが話題になることは滅多になく、街全体も盛り上がりにはだいぶ遠いように思えた。店のショウウィンドウや民家の窓辺を含めたあらゆる所に、ユニオンジャックの飾り付けを見るので、理由を尋ねたところ、エリザベス女王就任60周年のセレブレーションなのだという。なるほど、と思い見渡すと、オリンピック関連のものよりも女王に関するユニークなポスターやおしゃれな可愛いグッズの方が、圧倒的に多いのだった。
やはり、ここは女王の国なのだ。その愛され方は、オープンマインドな王室のあり方に比例していると思うのだが、今だにどこか菊のベールに包まれているような日本の皇室に対するものとは明らかに違う自由な、開放的なものを感じた。長い歴史の積み重ねが産んだ国策の一つではあるのだが、シリアをはじめとする、今だ世界の各地に散らばる様々な国の独裁者達は、今からでも速やかに気づき、考え、そして行動すべきではないだろうか。自らの権威に固執し、国民を苦しめるより、国民に愛されるように努め続ける方が、結局は、国を追われることもなく、自らの地位とその一族の安定を保てるのだということを。

 
女王のジュビリーに湧くロンドンで、いつも持ち歩いているエアカウンターで放射能を測ったら、ヒースロー空港から乗った地下鉄の車両の中で、0.08マイクロミリシーベルトであった。又、イギリス南西部に位置する世界自然遺産の海岸の街、デボンから列車で3時間かけてロンドンまで会いに来てくれた友達と遅いランチを楽しんだパブでは、0.12マイクロミリシーベルト。別の日に郊外の友人と入ったカフェでは0.05マイクロミリシーベルトであった。
日本を離れた海外では放射能の数値はどうなるのだろう、と、以前から思っていたので、今回の旅行で訪れたイギリス以外の幾つかの国々でも常にエアカウンターと一緒であった。それらについては、又の機会にブログで触れるつもりである。

 
去年の大震災と福島原発事故以来初めて訪れた海外で、人々は、皆、優しかった。知り合う誰もが一応に日本のことを心配してくださり、大震災直後の日本人の振る舞いについて「素晴らしい人々」と、褒めてくれた。
時間とともに忘れ去られてゆくものがある中で、今も人々の記憶の中にあるということは、私たち日本人にとって大切な励ましの一つであると思う。世界は、私たちの復興と、そして、いのちと子供たちの未来に優しい変革を温かく見守り、みつめてくれているのだ。
その善意の心に応えてゆこうと新たな一歩を踏み出す時、新たな希望は生まれるのだと思う。その善意の心を自らの心とし、他者に対しての振舞いとする時、新たな希望の輪は、日本に限らず、世界のどのような場所におかれても、大きく広がるのだと思う。

2012-10-09 08:44:12 UTC


一年ほど前のことである。
一月ほど留守をして家に戻ると、留守番電話に聴き慣れない女の人の声で、あるメッセージが、啓示のように入っていた。
「スイス人のMさんがあなたを探しています。連絡してあげてください」。
Mというのは、もう暫く会っていない古い友達のことである。彼女とは、大学を卒業したばかりのとある年の夏、初めて旅したヨーロッパで、別の友達を介して出会い、当時スイスの秘境ともいえるオーストリーやイタリアとの国境沿いにある小さな美しい村々を一緒に旅したのであった。他にも、フランス人とのハーフである彼女に連れられて、ワインで有名なボルドーや、彼女の親戚が暮らす南フランスで、彼女のご両親や親族と共にバカンスを楽しむなど、彼女とはたくさんの人生の素敵な思い出を共有している。その後、アジアの文化に造詣が深く、日本通でもある彼女は、度々日本を旅し、そのタイミングで時折会ってはいたものの、お互いの仕事や人生の都合があったのか、その後は、年に一度のグリーティングカードのやりとりの付き合いになった。一度パリから国際電話を掛けたのだが、ある時から住み慣れたジュネーブを離れ、正確な住所も電話番号もお互いわからなくなってしまった。その彼女が私を探している?何故?今どこにいるの?・・・・はやる心のままにメッセージをいれてくださった女性の電話番号をプッシュすると、Mの友達であるという明るい優しい声と気さくな話し方の女性が電話に出られた。名前を名乗ると、その女性は、「あ~っ!やっぱり無事だったんですねぇ~!よかったぁ~!フクシマにいらっしゃるんですよね。大変でしたね。今は落ち着かれたんですか」と、自分のことのように喜ばれ、そして気遣ってくださった。そして、このような話をしてくれたのだった。
「Mは、去年の日本の巨大地震と津波と原発事故の様子をテレビで観て、あなたの安否を気遣い、色々探したようです。結局、YouTubeにあなたが出ているのを知り、あなたの無事がわかったみたいです。それでもあなたの現在の連絡先がわからないので、日本に居る私にあなたを探して欲しいと頼んだんです。今年の6月に被災者の方々のチャリティーライヴをなさいましたよね。その会場の名前がYouTubeに出ていたんで、電話を掛けて、あなたの連絡先を教えてもらったんです」。

それから彼女にMのメールアドレスを教えてもらい、メッセージを送った。やがて、彼女から、以前と変わらない明るい様子の返事が届いた瞬間、深い感動とともに長い空白が一挙に埋まったのである。
彼女と出会えた人生で良かった。人生は本当に素晴らしい。一体誰が、このような展開を予知できたというのだろう。しかも、そのMという一人の友達のために手を尽くし、見知らぬ他人の私のことをも気遣うような心優しい素晴らしい女性の存在をも知ることができ、こうして思いがけなくも新たな友達として出会える運びにまでなったのである。やはり、命は見えない深いところで、幾重にもつながっているのである。


そのMと、先日スイスのジュネーヴで再会を果たすことになった。私がどうしても彼女に会いたかったのである。

短いようで長い人生には様々なことがある。けれども、どのようなことがあっても信頼し合える誰かが人生に一人でもいるのなら、それは、何にも代えがたい人生からのかけがいのない美しい贈り物なのだと思う。スイスまでは決して近い距離ではない。が、たとえわずかな時間でも彼女を尋ね、彼女の顔を見ながら「ありがとう」、の一言を言いたい・・・・そのような気持ちにさせてくれ、又それを行動に移すことができる人生の何て素敵なことだろう。


再会の日、ジュネーヴは日本の夏と変わらない蒸し暑い陽気だった。懐かしい香りのする石畳を歩きながら、感じのいいレストランをみつけ、昼食をとった。白身魚のソテーと温野菜にレモンをたっぷり絞っていただくメニューを選んだ。とても喉が渇いていたので、ミネラルウォーターの大きなボトルを二本も飲んだ。彼女が薦めてくれて、私も大好きになったHENNIEZの明るいグリーンのラベルのボトルが、夏のジュネーヴの陽射しの中でクリスタルのようにきらきらと輝いていた。


彼女は、数年前からジュネーヴから列車で3時間の地方で暮らしていた。プライバシーの問題があるので、ブログには伝記のようにたくさんのことは書けない。ただ言えるのは、肉親の死や病など人生の様々な出来事を経験しながらも、前向きなところと笑うのが好きなところ、そして、心の声に耳を澄ませて今を大切に生きるところは何一つ変わっていなかった。友として敬い、信頼を寄せていた彼女の純粋さ、誠実さ、そして幸せを自身の成長に求め、チャレンジを決して怖がらないところは何も変わっていなかったのである。



昼食後、レマン湖の畔を歩いていたら、湖の中央で、観光スポットとして有名な噴水が水しぶきをあげていた。その姿は遠くにある瞳にも凛として力強く、空と雲を突き抜けるような勢いだった。空の彼方からゴロゴロという音を立てて雷が近づいていたが、雷がもたらす激しいスコールは、私たちが市内を走る電車に乗って移動している間に密かに止み、私たちの行く手には全く影響がなかった。電車から降りると、虹のような色合いの、優しい、柔らかな光が夏のジュネーヴの景色を包み、アンティークとモダンの両方を兼ね備えたシックな街並みに、爽やかな風が心地良くそよいだ。



人と人との絆とは、この地球の空と大地を弛むことなく流れる透明な水のようなものなのだ。絆という心の水が、人と人との間を流れ、つなぎ、時空を超えて心と心を結びゆくかぎり、何があろうと人生は素晴らしい贈り物を用意する。
諦めてはいけない。なでしこジャパンの澤穂希選手ではないが、「苦しい時は私の背中を見て」、と言える自分自身を目指す中に、人との絆は必ず自ずと生まれるのだと思う。




帰りは、彼女が暮らす町へと向かう列車の方が早くジュネーヴを出発するので、駅のホームで彼女の姿が見えなくなるまで見送った。彼女は、FUKUSHIMAで暮らす私の様子を気遣いながら「また是非日本に来たい」と言った。その目には、うっすらと涙が光っていた。かつて、私が初めてヨーロッパを旅した時、それはドイツのフランクフルトからであったが、国際列車でジュネーヴに入った時のことを思い出した。その時は、Bという友達が、私を迎えに来てくれた。私の姿が目に入るや否や、大きくちぎれるくらいに腕を振り、列車から降りた私を力一杯抱きしめてくれた。その時の彼女の肌の温もりと、そこから漂う香水の香りを、今でも鮮明に覚えている。



彼女を乗せた列車が視界から完全に消えた後、空港へ向かった。私の飛行機は、エンジントラブルでもあったのだろうか、いつまでたっても飛び立とうとしなかった。散々待たされ、ようやく離陸する頃は、遠くに綺麗な繊細な爪のような三日月が白く輝く時刻であった。その優美な気品に満ちた姿を飛行機の窓越しにみつめているうちに、私の意識の翼は深い眠りとともに、いつしか夢の中を飛んでいた。

彼女と始めた新たな未来の大空へゆっくり向かっていた。
新たな出会いの命の宇宙の大空を、ゆっくりと羽ばたいていた。










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